on the road

カルチャーに関する話。

痛々しさ

アイドルのことをある程度追っかけていた時期と今で1番変わってしまったことは、コールをするときにも醒めきった自分が相変わらずいることで、ライブの一体感よりも周りのファンの打ち込みようを肌で感じて疎外感を覚えてしまう。この先アイドルのライブに行ってもこういう感じになってしまうならもう行けないな…。
ファンがオタク的な活動をしてしまうほど、アイドルはアイドルの文脈でしか生きられない…? 
今はとにかく現実をひたすら見つめていたいし、局地的にしか通用しないことより普遍的に響くものの方が共感できて、多分そんなことが影響して、アイドルの現場に行くことに少し抵抗があるのだ。

普遍的なものへのリスペクトを改めて持ち始めたのは、バナナマン星野源のおかげだと思う。バナナマン星野源も最初はサブカルって文脈で活躍してた人だ。
バナナマンは単独ライブのペポカボチャから方向転換して、明るいコントが増えた。昔は死を扱ったルスデンってコントがあったり、社会批判とも取れるブラックなコントもやっていた。タイトルは忘れてしまったけど。

星野源は弾き語りからPOPな音楽へ移行した。辛い出来事を明るく歌いあげることはとってもすごいことだし、インタビューを読んだら音楽に造詣が深いってこともわかるけれど、それなのに分かりやすい音楽を作って素人にも玄人にも評価されてるのはほんとにすごい。

朝井リョウもすごい。文章は正直まだ拙さも残っているけれど、人をちゃんと見つめているんだなってなる。ラジオのパーソナリティーもやっているし、作家というくくりでは収まりきらなくなりつつありそういう作家は最近ではなかなかいないのではないかと思って今後の作品はちゃんと読みたいと思った。


就活をしていると色々なことが痛々しく思えてくることがある。
ほとんどの人が少なからずキャラを作って就活をやっていて、それがうそっぱちに見えたり、必死に就活をやっていても、ネットではそういう人は意識が高いとバカにされたりしているからかな。
そういうことを考えるときに思い出すのが、「サイタマノラッパー」っていう映画。この映画はとにかくラッパーになりたい奴らが埼玉の田舎で痛々しくラップをやってるっていう映画(適当すぎだね笑)なんだけど、何か夢を志すときって多分最初のとっかかりは憧れの人の真似をすることで、真似だとやっぱり視野が狭くて見られている自分を意識してなくて、夢の眩しさに何も見えてない。

で、最近考えることはこの痛々しさに対して僕はどういう姿勢で受け止めるのかということだ。

映画版の「桐島、部活やめるってよ」だと痛々しい人物は3人いて、映画部の前田、吹奏楽部の沢島、野球部のキャプテン。けれど、前田も沢島もキャプテンも映画の中ではカッコ良く見えて、泣けてしまう。
この3人は痛々しさに立ち向かって、やりたいことをやることを選んだから、かっこいいんだと思う。彼らはやりたいことをやる、ただそれだけですでに満たされていて、普通に過ごすよりも強い行動力が伴っている。

こういう映画を見ると刺激が強くて何かしなきゃ!ってなる。「桐島」の良いところは屋上のゾンビのシーンがラストじゃなくて、宏樹のパートで終わるところ。ニヒリズムを克服した宏樹の背中から白い画面に切り替わって原作に書いてある「ひかり」を表しているんだ!ってなって、モチベーションが高まる。

話が脱線しかけているけれど、「サイタマノラッパー」と「桐島」を見て、やりたいことをやってる奴は強い、けど痛々しさが伴っていることを、なんとなく思う。今の自分にそこまで打ち込める何かがあるのかは分からないし、痛々しさに目を背けたくなってしまう。

痛々しさを受け入れて何かを諦めてしまうことはネガティヴさにつながるという自論を持っている。ポジティブに、前向きに生きたい僕は痛々しさとの立ち向かい方をもう少し模索していこうと思っている。