on the road

カルチャーに関する話。

今更、「この世界の片隅に」

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なんとなくブログを更新する日を日曜と決めていたのだが、日曜が宿泊研修だったため、更新できなかった。先週行ったサウナの話でも書きたいが、pomeraのアップロード機能に今日ようやく気づいたのもあり、昨年の年末に書いた記事をまずは載せたいと思う。時間のズレが甚だしいがそこは笑って許して欲しい。

 

 

 

この世界の片隅に』を見て、絶対にこの感想を書こうと思っていたのに、仕事の忙しさに甘え、書けずにいて、1年が経ち、ようやく書くことが出来た。『この世界の片隅に』を初めてみたのは、2016年11月20日だ。

 

 


僕は打ちのめされてしまった。この2年ほど感じてきたことと繋がることがあったからだ。

そのために、『この世界の片隅に』を語るための準備として、保坂和志星野源に言葉を尽くしておきたい。そうしないと自分の気持ちに整理がつかないから。

保坂和志の本との出会いは大学2年生の頃だ。大学生協で平積みになっていた『小説、この世界の奏でる音楽』を偶然手にとったこと、演習でも保坂和志を扱ったことをきっかけにいくつかの作品を読むようになった。
保坂和志のエモーショナルな文章はとても影響力がある。だから、自分で考えたつもりで巧妙に保坂和志によって誘導されていてなかなか保坂和志の思考の外へ出れなくなる。そういうことを自覚しつつも、空で言えるくらい自分の中に住み着いている二つの考え方がある。
ひとつは「恋」の話。
「恋」については多くの作品で語られているけれど(そもそもすべての保坂作品の根底に「愛」がある)、『小説の自由』の13章「散文性の極致」でよく語られている。

そこでは、アウグスティヌスの『告白』で神について書いていることを「私」がどう世界を感じ取るのかに敷衍させ、小説についてへと考えを昇華させていく。

 

 

恋をしている「私」にとって世界はすべて恋人に向かって語りかけるものとなっている。道端で花を見かけたときにも、秋の陽射しに光り輝く空を見たときにも、「私」はその美しさを恋人に語りかけ、恋人と共有している。旅行に出たときなどは見るもの聞くものすべてを恋人に報告していて、つまり「私」が見ることがそのまま「あの人」が見ることになっている。
しかし「あの人」はただ「私」からの報告を受け取ったり、「私」と一緒に見たりしているだけの受動的な存在ではない。「私」がこれほどすべてを美しいとか面白いとか感じることことができる理由は「あの人」が「私」とともにいてくれるからで、「私」の“見る”も“聞く”も「あの人」によってもたらされている。「あの人」は「私」が世界を感受する根拠となっている。(『小説の自由』中公文庫、325頁)

 

 

今まで恋を多少なりともしてきた経験と照らし合わせて、恥ずかしくなるくらい合致するものだった。日常の退屈さなんて微塵も感じさせずに、むしろ日常のできごとに対していちいち驚き、感じ、語りかけてしまいたくなる。そういう時期の中でしか考えつかないこともたくさんあって、恋をしているときのツイッターなんか不特定多数の「誰か」じゃなく、特定の「あの人」に向けてつぶやいている、なんてことも多いはずだ。

 

小説に限らず、良い作品に出会ったときは恋をしているときと似て、僕はその世界のことを過剰に美しく、面白く感じ、いつまでも想いを巡らしてしまう。『この世界の片隅に』はまさにそんな体験だった。のんの声が良かった、すずちゃんの表情が良かった、コトリンゴの音楽が良かった、普通の戦争映画じゃなかった、なんて言葉では終わらせたくない。スタッフクレジットが流れている中、あまりに圧倒されすぎて『この世界の片隅に』のことしか考えたくないし、『この世界の片隅に』のことを通して、何か考えたいという気持ちにさせられた。いつもスタッフクレジットが流れている間、気が散ってその映画のこととは関係ないことを考えてしまう僕にとってはとても珍しいことだ。

 

恋をしているときの「私」の世界に対する開き方のことを話したのは、単にこの映画で「恋」に似た気持ちを抱いたということだけでなく、すずさんの話に間接的に繋がってくる。だが、そのことを語る前に保坂和志のもう一つの話をしたい。

 

保坂和志は、小説論三部作を書いているが、一貫しているのは俯瞰的な視点から作品を全体として読み解こうとはせず、読んでいるときの運動を描こうとしている。だから、引用がひたすらに多い。断言することなく、疑問を重ねて小説に対する考えを前に突き進めていくのは、読者として、とても興奮する。そのスタイルは、クンデラにも通ずるのであるが、保坂もクンデラカフカが好きだからそういう書き方をするのだろうか。

 

2016年10月にみすず書房から出た『試行錯誤に漂う』のキャッチコピーは「私は小説はとにかく作品ではなく日々だ」である。日本語として破綻しているけれど、破綻しているからこそ、今まで見えてこなかった世界が見えてくる。このキャッチコピーでの「私」の使い方は『未明の闘争』という傑作でも使われているが、僕は今回その話をするために文章を書いているわけではない。『試行錯誤に漂う』は作品を作り上げるときに生じる絶え間ない試行錯誤の話だ。

 

試行錯誤に漂う

試行錯誤に漂う

 

 

様々な選択肢、形として残らなかった文章、思考が必ず作品の波間に漂うということがエモい文章で書き綴られている。可能世界に思いを馳せるような記述が大好きで、柴崎友香の『わたしがいなかった街で』を読んでいても、ceroの「orphans」を聴いていても、泣けてきちゃうのだ。話はそれたが、様々な可能性を考えていくこと、書いては消して、また、書いてを繰り返しながら前に進めていくことが小説において何より大事である。その作業を経た小説はとてつもない強度を持っている。

 

小説というのは、最初から完成形が見えた状態で一直線に書き始めるなんてことは滅多になく、いちいち手を止めてはどうしたらよいのだろうか、と思い悩みつつ、確信というにはあまりに朧気な予感に従って、書き続けていくものが多い。(僕だけかもしれないが)

 

小説を日々の生活に置き換えても違和感はない。
日々の生活は、最初からゴールやそれに至る道筋をイメージして、突き進める人はめったにいないもので、色んなできごとに出会ったときに、どうしたらよいかと悩んで、様々な選択肢を考慮しながらも前へ進んでいく。

この世界の片隅に』は戦争の話ではなく、日常を悩みつつ、受け入れつつ前へと進む話だ。のんの「生きてるってだけで、涙がぽろぽろ溢れてくる」という言葉は、言い得て妙だ。大きな起伏のある話ではないはずなのに、すずさんが生きている姿を見ているだけで笑ったり怖かったり泣いたりしてしまうし、自分たちの時代とは離れた話であるはずなのに、これは僕たちの物語だとまで思ってしまった。

 

星野源の『蘇る変態』でも、生きることの肯定が書かれている(と僕は思っている)。星野源は2度くも膜下出血で倒れている。しかし、その後の音楽がとてつもなくポップで楽しさに溢れていて、つらいことを仄めかさない姿勢がとても好きだ。それでいて、切なさも描いているところが小沢健二の歌詞にどこか通じるところがあると僕は思う。

 

蘇える変態

蘇える変態

 

 

 

体が生きようとしている。前からそうじゃないかと思っていたが、やっぱり当たっていた。死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。そのタイミングは他人に決められるべきではない。自分で決めるべきだ。夢中で観ている映画のラストを、物語の途中でバラされるようなものだ、そんなことをする奴はサイテーだ。俺は、最後の最後まであがいてあがいききって、最高の気分で、エンドロールを観てやる。
暗闇の中、喉からでてきた「地獄だこれ」というかすかな呟きが酸素マスクに充満する。地獄は死んだ後に訪れるわけじゃない。甘美な誘惑、綺麗ごと、そういったものにカモフラージュされて気付かないが、ここが、この世が既に地獄なのだ。私たちは既に地獄をガシガシ踏みしめながら、毎日を生きているのだ。(『蘇る変態』134頁、135頁)

 

 

現実の苦しさを受け入れ、それすら肯定し、前に進む力強さ。こういう思考の経路をたどる作品がいくつかあって、自分の中でずっと響いている。

 

この世界の片隅に』の冒頭シーン。のりを市場まで運ぶシーン。船から下りて荷物を運ぶ際、壁に荷物を押しつけて、風呂敷を結び直しているあのシーンをカットせず、描いていたことで、このアニメは「生活」をこれでもかと再現している。あまり前情報を入れずに見た僕は、このシーンで期待値をガツンとあげてしまった。

 

しかし、この作品の再現力のすごさ、リアリズムの徹底を僕は評価しているわけではない。むしろ、その中で生きるすずの表情、想像力の広がりがとても胸を打つものだった。すずは、絵を描くことが好きな少女だ。冒頭のシーンの後、道に迷ったすずは、おおかみのようなおじさん(作中ではオオカミ男そのもの!)にさらわれてしまう。なぜオオカミ男になってしまったのだろうか?単に毛深い中年男性ではいけなかったのだろうか?実はこれは後日談で、妹にエピソードを披露するために絵を描くことでこのエピソードを伝えていたのだ。なんと想像力豊かな語り手だろうか!

 

すずが絵を描くシーンはいくつもある。家に帰りたくなくて学校の課題をサボっている水原さんの代わりに絵を描いたり、軍艦の絵を描いたり(後に憲兵に見つかることになるが)、周作の寝顔をスケッチしたり……。絵は描くことで誰かの感性を享受したり、フィクショナルな想像力でこの世界と対峙し、受け入れ、前に進んでいく。

 

すずにとっての絵というのは、そんなすずが右手を失うということがどれだけ凄惨な出来事だったか。はるみちゃんの死は言わずもがな。

右手を失った直後のすずの表情、声はとても怖い。前半までの天真爛漫でどこか抜けたところのある少女ではなく、確実に戦争の被害者のひとりになっていた。だが、この映画は戦争の怖さを教えるラストなんて迎えない。この映画のラストで戦災孤児が登場する。戦災孤児の女の子は母親とともに空爆から逃げようとしていたが、母親は右手を失い、やがて死んでしまう。母親に虫がたかるくらい、腐敗しているのに、ぎゅっと寄り添う姿はもう見ていられないくらい悲しい。戦災孤児は、すずが周作さんと屋台でご飯を食べているところを見かける。戦災孤児は食べ物をくすねようとしたのだが、すずの失われた右手を見て、母親と重ねてしまう。すず達は戦災孤児を暖かく受け入れ(帰路はどこの家も暖かい灯りがともっている)、すずの家に迎え入れられる。僕はこのシーンで号泣してしまった。失われた右手は戦災孤児の母親を想起させる。戦災孤児ははるみちゃんを、周作との間の子を、想起させる。僕はこんな展開を想定していなかった。映画は笑い声の中、終わりを迎える。そんな希望のつなげ方なんてあるのか!傷をきっかけとして、誰かとつながっていくなんて!

 

映画が終わった後に流れるクラウドファンディングに参加していた人の名前が流れるのを見て、ありがとうという気持ちで溢れ、エンドロールはずっと泣いていた。エンドロールが終わると、映画館は拍手に包まれた。地元のイオンのシネコンだったのだが、自然と拍手をしてしまう感情に襲われるのもわかる。こんな映画体験をしたのは初めてだった。前情報が少ない時期に行くことができて良かった。この1年間で4回見てもまだ飽きない『この世界の片隅に』は僕のオールタイムベストです。

 

おわり。