去年の秋の文フリに行けなかったのだけれど、どうしても欲しいものだけ通販で取り寄せた。それは僕の好きなヒコさんや三浦直之さんが寄稿している「生活の途中で」だ。
ミワさんが書いたまえがきを引用させてもらう。
ある日、今日はどこを散歩しようかとグーグルマップを見ていると、給水塔という表記を見つけた。なんとなくそこを選択すると、誰でも自由に書き込むことのできる口コミがいくつか現れた。その中に、こんなものがあった。
給水塔が見えてくると、近所の人は「もう少しで家だ」と感じます。
口コミの多くは、給水塔が直径何メートルであるとか、東京都水道局のものであるとかの情報だったのだが、記号ではないふと現れたその誰かの生活の風景に無性に感動してしまった。
このまえがきを読んだだけで、通販で買ってよかった、と頬が緩む。
誰が作ったか分からないけれど、使い古されている「事実は小説よりも奇なり」という言葉は僕にとってはまだピンとこない。人生経験が足りていないからか。家族に話す他愛もない会話、コンビニの店員さんと交わす中身のない会話、エレベーターで同僚と話す会話。僕の日常はそんなもので溢れているのだけれど、映画館で目撃したり、小説の中で描写されると、その人の生活を垣間見るようでたまらなくなる。
坂元裕二さんのインタビューでこんなことが書いてあった。
普段、僕たちだって、頭のなかで考えていることすべてを表に出して喋っているわけじゃないし、たとえば初対面の人にいきなり自分の過去のことをペラペラと説明したりしないわけで、自分の思っている自分と誰かが思っている自分とでは印象も違うわけですよ。それってとても当たり前なことで、今、こうして目の前でしゃべっている人のことをわかっているようで、実は誰もわかってないし、本当のことを言っているかどうかだって分からない。日常ではそれがふつうに起きていることで、そういう当たり前のことを、ドラマとして普通にやっているだけのことなんじゃないかなって思うんです。
何を考えているか分からないからこそ、その人の日常動作の中にその人の暮らしが浮かび上がってくるんじゃないか。
当たり前のことがかけがえのないことだ、だとか、当たり前の大切さということを言いたいのではなくて、当たり前だと思っている日常はかけがえがあるし、いくらでも変化しうるし、固執しなきゃいけないものじゃないと思っている。大事ではないものが積み重なっていくことでその人らしさみたいなものが形成されていくことが面白い。
そういえば、年末に「三月のライオン」の最新刊を読んだ。
「三月のライオン」は自分との対話がめちゃくちゃ多い漫画だと思っていて、ともするととても動きのない地味な漫画になるんだけれど、豊潤なイメージ群がこれでもかと描きこまれていて、とても読み応えがあってものすごい甘みのある白いご飯を食べているような気分になる。今回の15巻では、野火止あづさという棋士に大きく焦点が当てられる。野火止あづさは「元天才棋士」としてちやほやされてきたが、桐山や二階堂の台頭で注目されなくなってしまう。この野火止あづさの凄いところは現実をしっかり受けとめ、自分の何者でもなさを認められるところだ。
僕の涙腺を刺激したのは、野火止あづさのこのモノローグだ。
子供の頃、ばっちゃんが言ってた
「できない」には
「本当にできない」と
「しんどそうでやりたくない」の二種類があるって
ーーそして
大抵の夢は
「しんどそうでやりたくない」の先に光ってるって
ばっちゃん オレは
獅子王戦のトーナメント表を見たとき
吐き気がしたんだ…
こんな鬼だらけの場所で生き残っていくには
あとどんだけ勉強しなきゃいけないんだよって
ーーだから ばっちゃん
「こっち」だろ?
オレの光は多分
この先にしかないんだ!!
このアツいモノローグの最後、オレの光は「多分」この先にしかない、という言い方が好きで、「しんどそうでやりたくない」をやったら必ず活路が見出されるとは思ってなくて、かすかな光を求めてあがく様が泣ける。
2019年によく聞いたアーティストは「カネコアヤノ」で、「愛のままを」をよく聞いていたんだけれど、「光の方へ」もたくさん聞いた。光つながりで思い出した。
隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね
だから光の方へ 光の方へ
出来るだけ光の方へ 光の方へ
光というのは場所を表すものではなくて、方向性を示すものなんだ、と気づく。だからか、光の方へ、という表現に凄いグッときた。出来るだけという表現もギリギリの中、なんとか自分の探し求めているものの方へ進む、という感じがして好きだ。
新年が明けた。年末年始は体調を崩していて、ほぼ寝正月になってしまった。今年は健康的に生活したい。去年は自分が大事にしていきたいものを見つけられたような気がする。今年はそれをうまく言語化していきたい、と思う。