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小沢健二の書く話の話

小沢健二の書く短い文章は、示唆に満ちている。

 

早速だが、2017年2月21日の朝日新聞に「流動体について」の発売を記念した全面広告の文章の冒頭を引用する。

 

アメリカに食パンはない。というか食パンは日本の特産品で、しかも輸出は不可能。なぜなら食パンは「生もの」であって、スープの冷めない距離ならぬ「食パンがふわふわのまま届く距離」に食パン工場がない限り、生食パンのあのふんわり、もちもち、パクパク、ワッ、もう一斤食べちゃった!の快感は味わえない。人はみな、食パンコーナーへ行ったらパッケージで工場のある場所を確認し、その方角へ向かって、ありがたく二礼二拍手一礼するべきである、と思う。

 

「アメリカに食パンはない」。そうなの?という驚きを感じると同時にこれは何についての文章だ?と訝しんでしまう。いくつかのモノローグに小見出しがついていて、今引用した文章の小見出しは「アンキパンの秘密」と記されている。

 

海外のパンはボサボサと解像度の低いローレゾで日本の食パンはハイレゾだと気づき、アンキパンは日本のモチモチした食パンじゃないとダメなんだということを小沢健二は言っていく。

 

最近のテレビ番組にありがちな海外から見た日本の凄さを賞賛する文章かと言うとどうやらそうではない。

 

などと書くと「海外暮らしの人はすぐに日本を過剰に賛美する」と煙たがられるかもしれない。

でも、逆の見方をすれば、ずっと日本に住んでいれば当然、日本の悪い面が目につきやすいはず。新聞には毎日、悪い話、暗い話も多いはず。

そんな中、悪い面がさほど目につかないで済む海外暮らしの身だからこそ、少々点を甘くしてでも「大丈夫、良いところもいっぱいあるよ。近すぎて見えないだろうけど」と伝える責任が、少しある気がしている。

ほら、近すぎると、見えなくなるものだってあるじゃないですか。旦那さまの良いところとか。

 

彼は、「LIFE」「刹那」などのJポップ史に堂々と君臨する大名盤でも、明るさの中の暗さ、切なさを描くことをやめない。このモノローグも例外ではない。そして、オザケンは、ある物事について暗い側面にもちゃんと目を向けつつも全体として肯定していく。そういうスタンスは、星野源だったり、柴崎友香だったり、朝井リョウだったり、こうの史代の「この世界の片隅に」だったりhomecomingsだったりに共通している。

 

オザケンは、いつだってアレゴリックに主張する。その切り口がうまい。最近は、投資家のバフェットの話をきっかけに見る/見られることの力関係みたいなところを言っていた(フーコーもそんなこと言ったっけね)。

 

エッセイの醍醐味とは、何だろうか。ベンヤミン・コレクションの第二集の裏表紙にこんなことが書いてある。

 

〈体系〉的思考に対して異端をなす、〈エッセイ〉の思想の根幹ーーそれは、手仕事的な細部へのまなざしである。そこはまた、私たちの「経験」の息づく場所でもあるのだが、もし批判的感性がそのような細部に感応するなら、それは同時に、対象の内部に忘却されたままの、全体性と無限性を予感させるものとなるだろう。そのたき、このエッセイそのものが自身の時代の感覚器官となっていることに気づかされる。

 

僕としては、時代の感覚器官としてのエッセイよりも、「経験」を物語るものとしてのエッセイの方を強く醍醐味だと思っている(それは「物語作者」的な物語り方を指す)。

 

「経験」とは、情報に還元されない解釈の幅を持ったものだ。だから、先人の習うより慣れろは正しい。