on the road

カルチャーに関する話。

花束を贈る話

今年は何故か花粉症の症状がいつもより軽い。一人暮らしをしてから、食事の偏りは感じるものの、銭湯に定期的に入って、デトックスしていることが一因だと思う。

 

ブログを書いていない間、「スリー・ビルボード」に感動し、「ブラック・パンサー」に胸躍らさせたり、ラブコメを大量に読んだり、競馬で大勝ちしたり、マッサージを月2回のペースで通い始めたりした。ただそのことを文章に起こすほど、余裕がなかったので、毎週更新するという今年の目標は早くも途絶えてしまった。

 

仕事=やりたいことではないので、納期に追われて休日出勤が常態化している今の生活はあまりにも楽しくない。自分の性格的に、全体像だったりゴールまでの道筋がわかっていないと仕事の効率がものすごく悪くなるし、ミスも多発する。特に忙しさで考える余裕がなければ、より一層そうなる。

 

ある程度の豊かさを享受してきた僕は、身体をすり減らして何かを成し遂げたり、社会的地位を上げていきたいというより、やりたいことにリソースを割くことに重きを置いている。こういうことを考えていると、サルトル実存主義の話を思い出し、「桐島、部活やめるってよ」のラストで、宏樹が泣くシーンを思い出す。

 

やりたいこととは、何だ。と、考えたときに、やはり小説を書きたいということになる。それも中編以上の作品を。早稲田大学にいたもんだから、表現技法ばかりに目が向いてしまっていたけれど、プロットをしっかり作り込んでいくような作品作りをしたい。ピクサー作品のようなテーマの深掘りをしたい。

 

おぼろげな記憶だけど、有川浩の「図書館戦争」のあとがきに、プロットは特に考えずに書いていますみたいなことが書いてあった。筆が乗るままに書くことへの抵抗を感じて、プロットを作り込む必要というのは、昔から感じていたのかもしれない。

 

しかし、「ストレンジャー・シングス」のダファー兄弟がドラマのストーリーについて解説している話がnetflixに上がっていて、それを聞いていたら、ドラマの脚本というのは生きていて、俳優たちが演じた途端別の顔を見せ、軌道修正するみたいなことは当たり前のことであって、むしろそうしないと面白くないのだと思った。大事なことは、プロットではなくて、テーマの深掘りで、徹底的に人物を描くために登場人物の立場に立って考える必要がある。

 

プロットに書かれた出来事で、登場人物は何を感じ、何を得て、何を失うのかを考える。それは、漫画の世界では当たり前に出来ていることなんだと思う。漫画はキャラクター優位に動いていることが多いし、キャラクターをどう立たせるか、どう個性的にするか、という議論はままあるし。ゆずチリの「漫画学科のない大学」の12話、21話らへんにも書いてある。

 

クンデラの「小説の精神」に、実存的コードという言葉が出てくる。「小説の精神」の第1章は人間の実存に迫るものとしての小説の系譜をたどっていく。

どの自体のどの小説にせよすべて自我という謎に関心を持っています。

 

初期の小説として、参照されるのは冒険小説だ。

 

行動を通してこそ、どの人間も同じ顔をしている、そんな日常の繰り返しの世界から人はぬけだすことができる。

 

しかし、意図した通りに行動することができない。自分と行動の間の裂け目があるのだ。では、どうしたら自我を把握できるか。それは内的独白だ。そこから書簡体小説、心理小説が生まれる。その後に続くジョイスでこの内面の探求は限界を迎える。……といったような感じで、冒険小説だったり、心理小説だったりを分析していく。

 

さて、クンデラは、心理小説=登場人物の内面を探るのとは、別の方法で自我の実存を探求する。

 

実存的コードは、キャラクターを特徴付けるキーワードみたいなものだと思ってほしい。クンデラの話の作り方として、まず場面を用意する。その場面に対し、キャラクターが動く。その動きについて観察することで、キャラクターの実存的コードを分析してみせる。

 

おわかりのように、私はヤロミールの頭のなかの動きを読者には示しません。むしろ私自身の頭のなかの動きを見せるのです。私がじっくりヤロミールを観察し、一歩一歩彼の態度の核心に迫り、これを理解し名前をつけ、把握しようとするのです。

 

そこからテーマ性を読者に提示していくが、その後の場面では、2つ目の実存的コードを用意し、以前の分析で導いたテーマ性を少しずつ変奏していき、物語に深みを出していくというやり方をしている。

 

正直僕は、クンデラのこのやり方がどういう成功を収めたのか分かっていない。ただ小説に「観察者」としての作者(キャラクターの内面を見ることができない)を登場させたのは、発明だと思う。現象学的手法を小説にガッツリ取り入れたという意味で。(もちろんクンデラ以前にもそういう書き方をした人はいると思うが、意識的にはっきり書いているのはクンデラが初ではなかろうか)

「観察者」の分析は、キャラクター当人の考えとイコールではないから、可能性のひとつでしかない。可能性について思考していくこと。

 

なんてことをノートに書いて、少しずつ考えを深めているこの頃だ。今までの創作は、プロットなんて無視して、書きたいように書くことを徹底し過ぎていたから、物語が進展していかない、場面転換が多い、引用が多いみたいなことになっていた。

 

思うに、僕は自分が思っているより考えるのが下手なので、文章を書いてその文章を元にまた考えて少しずつ形にしていかないといけない。まずはプロットや設定を練る段階で、それを行なって、何を書きたいのか、何を伝えたいのか、どう伝えるべきかを自分なりに考えておきたい。

 

花束の話を書こうと思っていたのに、気づいたら、創作の話をしてしまっていた。花束の話はまた今度だ!