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カルチャーに関する話。

わたしは光をにぎっている


松本穂香が主演!映画『わたしは光をにぎっている』予告編

 

「すみっコぐらし」が自分の居場所を探す物語だとしたら、「わたしは光をにぎっている」は居場所をうしなってしまう物語だ。

 

主人公の澪(松本穂香)は、シャイで人と上手に話すことができない20歳の女の子だ。そんな彼女は長野の旅館で生まれ育ったのだが、おばあちゃんの入院をきっかけに上京し、お父さんの知り合いがやっている銭湯(伸光湯)でおじさん(光石研)と一緒に暮らすことになる。東京とはいっても商店街があるような下町的な東京だ。調べたら立山らしい。

 

最初は仕事が見つかるまでの期間限定の銭湯ぐらしだったのだけれど、人と話すことが苦手な澪は、バイトを始めても続かない。おばあちゃんからの電話で「目の前のできることからひとつずつ」という言葉を受けて、銭湯で働くようになる。急に人と話せるようになるわけではないのだけれど、少しずつ街の人と仲良くなっていくその日常が愛おしい。

 

渡辺大知の安定感よ。渡辺大知演じる緒方銀次は澪が移り住んできた町のことが大好きでドキュメンタリー映画を撮影している。なぜドキュメンタリー映画を撮っていたか、理由はのちに明らかになるのだけれど、再開発で今の町が変わってしまうのだ。澪は、自分の居場所をまさに見出し始めたのに、その場所すら失ってしまう。こういう物語にありがちな、再開発から町を守ろうという選択肢は選ばず、再開発で町が変わってしまうことを受け入れ、町が変わってしまうそれまでの間をしっかり生きようという考えがとても良い。なんでこの考えに行き着いたのだろうか。それを映画を見終わってからずっと考えてた。この町で紡いできた思い出がいつまでもしがみつかいていたくなるような感傷的なものじゃなく、背中を優しく後押しするようなものだったからなのかもしれない。おばあちゃんの「目で見て、耳で聞く。それさえできれば生きていける」(細部が多少違うかも)って言葉が頭に残っていたからかもしれない。

 

山村暮鳥『自分は光をにぎつてゐる』

 

自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる

 

思い出を紡いだ場所が失われたとしてもきっと、その思い出が僕らを温めてくれるだろう。「のび太結婚前夜」でしずかちゃんのパパが言ってたセリフを思い出したりする。偶然読んでいた保坂和志の「カフカ式練習帳」にこんなことが書いてあった。

 

気がつくと彼の子ども時代の思い出は彼ひとりしか知らないものになりつつあった。

あるいはこうもいえる。すべての思い出はその情景にいる人々が一人ずつ去り、ついには思い出を持っていたその人も去っていくのだと。そのとき思い出もこの世界から消え去るのか、それとも消した電球のフィラメントに余熱が残ったごくわずかな時間らスイッチを切って光が残るその光ーー余光と呼ぼうーーがたしかに存在するように、思い出もすべての人が去ったあとも余光を残すことがあるのか。

 

消した電球のフィラメントに残る余熱にたとえられたように、思い出は熱にたとえられるのか。舞城王太郎の「僕が乗るべき遠くの列車」で、主人公が結局人が死んだり物がなくなっちゃうなら、意味がないんじゃないかという問いに菊池鴨が出した鮮やかな答えのことを思い出す。

 

「漠然としてて難しかったら、じゃあ、具体例をだすよ?鵜飼夏央ちゃん、あの子の人生に価値も意味もない?」

「何言ってんだよ、ふざけた例出すな」

「で?どう?」

「あるよ。でもそれは俺の主観だろ?」

「他の人にとっては?」

「それはあるだろ。でも、それもその人たちにとっての主観だろ?」

「じゃあ、あの子の存在そのものが、この世に何の善も悪も、暖かさも冷たさも、もたらさなかったと思う?」

僕は言葉を失う。

 

鵜飼夏央は、その全てを行ったとおもう。なぜなら人だから、良いところも悪いところもあるだろうし、良い行いと悪い行いの両方をしてただろうし、その善意は世界を温めただろうし、悪意は冷やしただろう。

それは人だから。

人間は皆そうだから。

 

銭湯の湯に差し込んだ手が感じる温もりをいつまでも忘れられないでいるような、じんわり優しい映画でした。