on the road

カルチャーに関する話。

「居るのはつらいよ」のこと

後輩に誘われて、久しぶりに文フリに出ることなった。会社で無駄に報告書作ったり、新人の文章を添削したり、会社のマニュアルを大量に改訂しているので、多少文章力は上がっていると信じたい。たしか以前文フリに出たときは大学3年生だったか。あの時の作品を読むと、もう少しこうしておけば!の連続なんだけど、「映像研には手を出すな!」で浅草氏が言っていた言葉が染みる。

 

f:id:aoccoon:20200220225724j:image

 

作品なんて完成するものじゃなくて、無限に改良することができる。締切がなかったら延々と台本を改良し続けるとバナナマンの設楽さんもいつかのpodcastで言ってたではないか。けど、当時の僕はそれなりの出来に満足して、改良しなかった。今の僕は締切直前でどんな気持ちになるのだろうか。どれほどのこだわりを持って文章が書けるだろうか。今見ているアニメが映像研だけだからかわからないがめちゃくちゃ影響を受けてしまい、モチベーションは高い。

 

「ロケットはここがかっこいいんだ!」っていう画圧に感動するわけよ!!

「わかってんじゃんアンタ!!」ってさ!!

 

どこの誰だか知らないけど、アンタのこだわりは通じたぞ!! って。

 

私はそれをやるために、アニメーションを描いてんだよ!

 

(中略)

 

私はチェーンソーの刃が跳ねる様子を観たいし、そのこだわりで私は生き延びる。

 

大半の人が細部を見なくても、私は私を救わなくちゃいけないんだ。

 

動きの一つ一つに感動する人に、私はここにいるって、言わなくちゃいけないんだ。

 

f:id:aoccoon:20200220230522j:image

 

先週まで文フリで書こうと思っていたものは、ブログの延長線上にあるようなエッセイを想定していて、ネタ切れにならないようにブログの更新をサボって、自分の中で言葉をため込んでいた。それでもブログを更新してしまったのは、最近読んだ本について、吐き出したかったからだ。

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

最近読んだ本というのは、東畑開人の「居るのはつらいよ」で、小説ではない。エッセイっぽい学術書だ。以前SNSで話題になっていたのを見かけていたから、読もうと思っていたんだけれど、近くの本屋に売っていなかったのですっかり存在を忘れてしまっていた。時間をつぶすために入った本屋でたまたま平積みされてたのを発見し即購入、ようやく読むことができたのだ。

 

話題になっていた、と書いていたものの中身のことをほぼ知らずに購入した。この本は、臨床心理士が沖縄の精神科デイケア施設で働いた4年間の体験を綴ったものだ。たくさんのメンバー(デイケア施設に通う人)やスタッフが出てくるが、特定の個人を指すものではなく、創作も混じっているらしいから、純粋なドキュメンタリーとも違う。正直文章がライトすぎるから好みじゃないのだけれど、中身の面白さで読み進めることができた。

 

主人公は、大学院での研究を活かすためにカウンセリングを仕事にしたいと考えている。ただ求人には、非正規の募集ばかりで、ようやく見つかったのが沖縄の精神科デイケア施設で、そこでの「ケア」にまつわる話が僕が社会に感じている違和感に通じるものがあった。読んでから、1週間くらい時間が経ったのだけれど、まだ頭から離れない。

 

デイケアにはそもそも「通過型デイケア」と「居場所型デイケア」の二つがあるらしい。通過型は、さまざまなプログラムに参加することで、回復し、社会復帰をするものだ。なので、デイケアは社会に戻るための通過していく場所だ。それに対し居場所型は社会復帰が必ずしも容易ではない人たちの居場所を提供する。沖縄のデイケア施設は後者の施設であった。

 

社会復帰が必ずしも容易ではない人たちの居場所を提供するものである居場所型デイケア施設なのに、スタッフは入れ替わり、メンバーはここでも居づらさを感じ居なくなってしまう。その原因が最後に明かされる。

 

会計だ。この声は会計の原理から発せられている。

会計の声は、予算が適切に執行されているのか、そしてその予算のつけ方そのものが合理的であったのかを監査する。コストパフォーマンスの評価を行い、得られたベネフィットを測定し、そのプロジェクトに価値があったのかどうかを経営的に判断する。

そのような会計の声を前にして、「ただ、いる、だけ」はつらい。だって、「ただ、いる、だけ」の「ただ」と「だけ」は、そのような社会的価値を否定するメッセージを原理的に含んでいるからだ。社会復帰するとか、仕事をするとか、何かの役に立つとか、そういうことが難しくても、なお「いる」。それが「ただ、いる、だけ」だ。そういうことを超えて「いる」を肯定しようとする「ただ、いる、だけ」は、効率性とか生産性を求める会計の声とひどく相性が悪い。

そういうものを肯定して初めて、デイケアは可能になる。というのも、少なくないメンバーさんたちが、デイケア以外のどこにも居場所がないからだ。

 

合理性を追い求めるあまり、うまく立ち回れない人たちを切り捨てていくような態度を取り続けた結果が今の社会なのではないか。格差が是正されず断絶が生まれている、ってことが色んな映画、ドラマ、小説に描かれている。肌感覚でもそう思う。上級国民という気持ち悪い言葉が当たり前のようにSNSで使われているのを見ると僕はすごい嫌な気持ちになる。

 

生きづらさを少しでもなくしていくためにはじゃあ、どうすればいいの?ということが思いつかない。わからないけれど、なんかその価値観おかしくない?という気持ちを忘れずにいたい。