on the road

カルチャーに関する話。

伝わらない。

当時父はまだ歴史の教師ではなかったけれど、こなれていない言葉でなんとか僕に語ろうとしたのはまさに、〈歴史〉、だったのだ。

ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』 

 

ブログの更新が2ヶ月分くらいサボってしまった。途中まで書いて、なんか違うなと思って、書くのをやめた記事がいくつかあって、そういう形に残らなかった思考の残滓をたまに読むと面白い。

 

下書きや公開している記事を読むと、僕はコロナ禍以降、伝えることに問題意識を持っているのだと感じる。明快な正解のない物事に対して、自分の考えをどう伝えるべきかというのを色々なレベルで悩んでいる。僕を知っている人はわかると思うが、僕は圧倒的口下手だ。言葉がスラスラ出てくるタイプではない。だからこそ余計にどういう言葉を使って、伝えるべきかを意識してしまっているのだと思う。

 

昨日は休みだったので、美術館に行った。国立新美術館でやっている佐藤可士和展。正直佐藤可士和についての知識は、ユニクロのロゴをデザインした人くらいの知識しかなかったが、暇だったので衝動的に見に行った。


説明されなければ、ロゴに込められたメッセージなんて5%も読み取れないと思うけれど、企業の理念を整理して、わかりやすくイメージ化するというのはできそうでできないよなあ、と写真を撮る。印象に残ったのは、三井物産ブランディングについての展示。いちばん説明がたくさん書かれていて、意図するところが読み取りやすかった。三井物産の強みやバリューを文章ではなく、名詞化して表現することで、発信力を高めるのだそうだ。文学では名詞化の方向ではなく動詞や形容詞を多用して、こぼれ落ちてしまったものを拾い上げることを志向している、と僕は思っているのだが、そういう方向とは真逆だなと感じる。僕はシンプルさも好きなので、名詞化してしまうことに対して、明確に否定することができない。無駄を削ぎ落としていくこと、無駄になってしまったものを拾い上げること、そのバランスを自分の中でうまく取れているだろうか。

 

『花束みたいな恋をした』で有村架純演じる絹ちゃんから漫画が途中で止まっちゃってるなら読めばいいじゃんと言われて、菅田将暉演じる麦くんが「頭に入らないんだよ」と語気を荒らげるシーンを見て、今の自分と同じではないか、とギョッとしたのを思い出す。

 

佐藤可士和展を1時間くらいで見終えて、昼に近くでつけ麺を食べて、すぐに帰るのもなんだかな、と思って、近くでやっていた「トランスレーションズ展ー『わかり会えなさ』をわかり合おう」を見に行く。

 

www.2121designsight.jp

 

ポリグロット(他国語話者)が複数の言語を混ぜて話す場面や、唖者が首を動かしてモールス信号を発信し、それを機械で言葉に翻訳してコミュニケーションする様子、聴覚障がい者が音を感じるために振動で音を表現したデバイス…。コミュニケーションにまつわる諸々が展示されていた。普通にめちゃくちゃ面白いので、六本木で遊ばれる方は見に行くべし。僕が好きだったのは、植物が呼吸する際に開閉する気孔をAIが読唇術を使って、言語化する展示。

 

この展示では、翻訳しても翻訳しきれない部分を味わってほしい、という意図も込められている。自分の言語体系、知識体系では理解できない何かの存在を感じること。

 

伝わらないからいいやと匙を投げてしまうことが多いのだが、もう少し言葉を尽くして伝えてみたり、わかろうとしてみようと考えた休日でした。