on the road

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微妙だった本について

ここ数年はあまり本を読めていないから偉そうには語ることはできないが、読者に問いを投げかける一文が差し込まれるような本が好きだ。物語だけを追いかけてしまいがちな悪い読者なので、ページをめくる速度を落として、より深く没頭させてくれるもののひとつとして、僕は問いに強く惹かれる。その問いが明確に回収されなくても良くて、その投げかけられた波紋を追いかけるだけで十分だ。

 

僕が柴崎友香が好きな理由はその問いが世界を拡張してくれるからだ。

 

 それと同時に、さっき道に落ちたドリームキャッチャーが、思い浮かんだ。ネイティブアメリカンが作ったものではなく、形だけ模したただの飾りかもしれない。四百円かそこらの。
 黒灰色の道路に放置されたドリームキャッチャーに、手が伸びてくる。その手が拾いあげる。そのままポケットにつっこむ。
 それを見ている人はいるだろうか。落ちる瞬間をわたしが見たように。わたしのほかにも誰か、その瞬間を、知った人はいるだろうか。

柴崎友香『パノララ』

 

柴崎友香の登場人物はこういう疑問を抱く人物が多い、と思う。誰も気付かないかもしれない些細な出来事をなかったことにしないし、こうありえたかもしれないという可能世界にも思いを馳せながら、今ここの世界を肯定していく。そういうイメージを柴崎友香の描く小説に対して抱いている。

 

反語的な表現も好きだ。ローラン・ビネ『HhHH』という小説の冒頭で、クンデラの作品を言及している。

 

ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある。リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか? 僕の考えでは、クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ。そもそも、架空の人物を登場人物を登場させることほど俗っぽいことがあるだろうか?

ローラン・ビネ『HhHH』

 

クンデラという作家について補足するとプラハの春で政治が大きく揺れ動いていた時代のチェコ生まれの作家で、そういった政治的に抑圧された現実社会を小説に落とし込むことが多かった。現実社会を描いていながら登場人物は架空であることをビネは批判しているのだが、「クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ」とリスペクトが感じられる。ビネの試みが成功したか、失敗したかはさておき、先人の試みを引き継いで、更に優れたものとしようという意図は野心的で好感が持てる。

 

問いを投げかけてはいるものの、好きになれなかった本がある。最近読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』だ。論じているトピックス自体は自分の関心に近いものだったので読んだのだが、好きになれなかった。好きになれなかった要因について整理してみる。

 

 何度も繰り返し時計を見てしまうとき、私たちは単に現在の時刻を確認したいのではない。いま何時何分であるのかを知りたいのではない。そうではなくて、列車の発車までまだどれだけ時間があるのかを知りたいと思っている。
 では、なぜそれを知りたいと願うのか? 目の前に現れている退屈を相手に、あとどれだけこの成果のあがらぬ気晴らしを続けねばならないのか、それを確認したいからである。いま私たちは退屈と闘っているけれども、その闘いがうまくいっていない。だからそれがあとどれだけ続くのかを確かめようとしているのである。
 気晴らしを通じて行われる退屈相手の闘いとはいかなるものだろうか? 言うまでもなく、それは時間をやり過ごすこと、時間がより早く過ぎ去るように仕向けることに他ならない。
 ならば、なぜ時間がより早く過ぎ去るようにしたいのか? 簡単だ。時間がのろいからである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

疑問符による問いを経由した論理展開をしていなければ、僕はひっかかりを感じなかったかもしれない。投げかけられた問いについて、考える余地を与えられない。問いが読者を特定の方向に誘導するための機能が強すぎて、その回答の正しさを疑いながら僕は読み進めることがしばしばあった。

 

 こんなずさんな主張がどうして経済学者の口から出てくるのだろうか。「新しい階級」からこぼれ落ちる人間などたくさんいるに決まっている。そしてまた、仮に「ガレージの職工になった医者の息子」がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。
 にもかかわらず、彼は周囲の「憐れみの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ。まったく恐ろしい事態である。そのような劣等感を生み出すプレッシャーを作り上げ、また増長しているのは、「「新しい階級」が拡大していくべきだ」とするガルブレイズのような経済学者の主張に他ならない。
 あきれたことにガルブレイズ本人も次のように述べている。「この階級〔新しい階級〕の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合の悲しみにくらべれば、封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないであろう」。その通りだ。そしてガルブレイズよ、よく聞け。君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

なぜこのような激しい論調で先人を断罪してしまうんだろうか。著者は果たして断罪できる立場にあるんだろうか。最近読んでいる『因果推論の科学』の一節を引用することで、僕の違和感を表明したい。

 

私は、ここで歴史を書く者が絶対にしてはいけないことをしてしまった。この本では同じようなことをこの先、何度もすると思う。いったい何をしたのか。私がしたのは、現代の科学を知っている者の目で語るということだ。一九六〇年代以降、それは良くないこととされている。このようにはじめからすべてをわかっていたかのように歴史を語る姿勢は、「ホイッグ史観」と呼ばれて軽蔑される。(中略)現代のヒストリーライティングはもっと民主的である。科学者も錬金術師も同じだけの敬意を持って扱う。どのような科学理論も、その時代の社会的状況から自由になることはできないということを常に忘れてはいけない。

ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー『因果推論の科学』

 

犯人をさらしあげるようなものの書き方は支持できない。今の多様性を肯定していく価値観と当時の価値観では大きな差があることに自覚的であらねばならないし、彼の主張がなければ議論を先に進められなかったという事実に向き合う必要がある、と僕は感じる。

 

あまり好きではないものについて、このブログに書きたくはなかったのだけれど、もやっとした感覚を多少なりとも言語化したくなったので書いてしまった。退屈にどう向き合うのか、の結論部分もあまり賛同できないのだが、それは機会があったら触れるかもしれない。

 

では。