on the road

音楽・映画・小説・漫画・お笑い・ラジオの話。

愚痴と生活

僕は総務で、色々な業務を担当している。その中で規程とか基準、手順書を作ったり、改訂することに面白さを感じる。文書にしていくことを反対していく人が一定数いて、曰く「それまでルール化したらキリがない」だとか「そこは状況に応じて柔軟に対応しようよ」だとか「考える力がなくなる」だとか。先人がマニュアルを作らなかったせいで、後輩が手探りで仕事をし、それによってエラーが発生して、多方面から怒られて心身に不調をきたしている。そういう場面を幾度となく目にしてきたから経験偏重型というか、文書を軽んじるその姿勢に悔しさを感じる。

 

僕もまた先人が曖昧にしてきた業務を任され、今後のルール整備を行うことになり、自分比でそれなりに忙しい日々を送る羽目になった。本当はドラマのコンクールに応募するために定時で帰りたかったのに、連日遅くまで残業し、休日出勤を繰り返してしまう。疲れを残したくなくて、長風呂をする。クナイプのバスソルトを久しぶりに買って使う。身体の温まり方が全然違う。食事にも気を遣いたいけれど、そこまでの余裕がない。

 

サウナは週1に抑えている。最近ロウリュの香りのバリエーションが増えてきたように思う。サウナ文化が発展してきているんだな、と思う。最近良かったなと思った香りは、アールグレイ、珈琲。アールグレイの甘い香りと珈琲の香ばしい香り。どちらも気持ち良い程度に香ってきて、サウナ室で心地良く汗をかけた。

 

もう脚本を書く時間が取れないからと諦めモードになりつつあるけれど、せめて小説やらドラマに触れる時間は作ろうと遅くに帰ってから、深夜1時くらいまで起きている。去年は23時に寝ることが多かったから、仕事中も割と眠い。

 

今日はお昼に近くの町中華に行ってきた。住宅街の中にある古びたお店。テーブルは2つしかない。古びたストーブの上にやかんが置いてあって、どこか懐かしさを感じる。カツ丼を注文する。付け合わせに漬物とチャーハンスープ。美味しい。サイフを忘れてしまって、焦っていたところ、また今度で良いよと店員のおばちゃんが言ってくれた。こう無条件に信頼されてる感じがなんだか嬉しい。

 

最近、Twitterの使い方を変えてみた。短い文でつぶやくのではなく、140字ギリギリまで言葉を詰め込んでみる、というつぶやき方。内容も自分の生活にかなり近いものにしているつもりだ。生活の言葉を灯籠のようにタイムラインに流してみるのも面白いのではないか。最近、生活と作品というものを対比させて考えている。もう少し考えをまとめたら、ブログに書くかもしれない。

 

井戸川射子の「ここはとても速い川」を少し前に読んで、これがここ2,3年で読んだ日本の小説でいちばん面白かった。児童養護施設「大麦園」に暮らす集とひじりの話で、子ども視点での文体がとびきりに良い。

 

父さんとおるん、しんどかったとひじりが言う。「二人でいると、僕がここを盛り上げな、と思ってまう」きっと慣れるまでやわな、と考えながら俺は返事して、「夕ご飯の時、今かって上田先生とか朝日先生が喋りまくってるんでもないやんか。大人と話なんか合うわけでないやん」と続ける。「ほんで、目の前にいてくれる親は自分の子なんて、眺めるだけでもう楽しいんやろ」いろんな人が、自分とちょっと似た子を生んで、きっとそうや。

 

小学生の頃、僕はこんなに豊かな感受性を持ち合わせてはいなかったが、地の文に口語体で書かれる集の気持ちに詩的な響きを感じて、子どもの頃というものに郷愁を感じてしまう。

 

タイトルにもある通り、川というのは重要なモチーフなのだと思う。読書メーターを眺めると地の文にたくさん出てくる口語体の集の思考を奔流する川になぞらえる人が多くいた。なるほど、たしかにそういう側面もあるんだろう。この作品において、流れる水はこのように描写されている。

 

雨やから正木先生は一人、屋根のある方の物干し場で洗濯物干してる。波形の半透明屋根を、水は自分の通路見つけて流れていく。

 

不定形なものが時間とともに自分の場所を見つけていく。モツモツのアパートの日陰に咲くアガパンサスを近くの知らない人の家の庭に植え替えたり、ひじりがお父さんと一緒に暮らすようになったり、居場所を変えて生きていくものたち。「流れてる意味も分からんままずっと気持ちいいような」、そんな生活の行く末を案じてみたくなった。

 

 

 

夜更かしのせいではないということでお願いします。

年末年始の休暇が明けて、1週間ほどでようやく仕事をする身体に戻ってくる。寝正月を過ごしてしまったけれど、今年は連日夜更かしをしている。読書や勉強をしようとすると、今までのようなぐうたらな過ごし方をするわけにはいかなくなってしまうからで、体調が万全ではないのに、喫茶店に通っている。体調が一向に回復しないので、病院に行って、薬をもらって、服用したら元気になる。ぜんそくの吸入器を使うのは初めてでなぜか子どもに戻ったように感じる。

 

去年はだいたい週2~3回サウナに通っていて、それはそれでストレス発散にもなるし、気分転換には最適だが、僕の場合はサウナから帰ると寝てしまって、半日潰れてしまうことが多々ある。平日にサウナに行くと、帰ってから読書や勉強する気力はなく、布団の中に吸い込まれていく。だから、今年はサウナに通いすぎない生活にしようと思っている。自宅でのおふろ環境を充実させようとクナイプのバスソルトを買った。最近は安い入浴剤を使っていて、においは好きだったけれど、身体があまり温まらなかったのだ。クナイプを久しぶりに使うと、身体の温まり方が全然違う。寝付きも数段良くなったように思う。

 

新聞に共通テストの問題が掲載されていたので、現代文を解いた。今年も満点が取れなくてもやもやしている。電子上でメモできずに解いたからであると言い訳を自分に言い聞かせて無理矢理納得する。

 

最近、読んだ本は小川哲「君のクイズ」、乗代雄介「本物の読書家」、白井智之「名探偵のいけにえ」。

 

「君のクイズ」は、クイズ番組の決勝から話が始まる。最後の問題で相手が問題が一文字も読まれないうちにボタンを押し、正解する。なぜそのような正解が可能だったか、真相を追究する、といったはじまり。この物語のハイライトは、主人公が恋人と別れた後に参加したクイズ大会のシーン。クイズに正解するということは、今までの人生を肯定しうるものなのだ、ということが真に迫るくらい納得感があった。クイズプレイヤーにとっての矜持を感じて、面白い。平易な文章で書かれているから、読みやすい。

 

「本物の読書家」は、大叔父を高萩の老人ホームに連れて行くために常磐線に乗っていると、こてこての関西弁の男と居合わせて、本の話をしているうちに大叔父の過去の話になっていく。おびただしい数の引用が織り込まれたこの作品は、読書とはどういうものであるのかを思考する小説であって、僕はこういう類いの小説が好きだ。少し調べると、乗代氏もはてなブログユーザーであるらしい。親近感が湧く。

 

「名探偵のいけにえ」は、人民寺院という20世紀中頃にアメリカで創設された新興宗教集団自殺事件をベースにしたミステリー。本作では人民教会という名前で登場する。人民教会は、南米のガイアナでコミューンを形成している。事故で足がなくなったのに、足が生えたと思い込んでいる信者がいるし、周りの信者も足が生えたと信じていて、認知のズレが生じている。信者側のロジックで推理を展開したり、探偵側のロジックで推理を展開する等、多重解決する様は面白い。キャラクターが漫画っぽくカリカチュアされている感じは好みではないが、探偵が終盤提示するあるふたつの選択肢が残酷すぎて、最高だった。登場人物の感情よりもロジックを優先して組み立てられた物語だから、どうしてもキャラクターがコマのように思えてしまう場面があるが、ラストの吹っ切れた感じにすがすがしさすら感じてしまう。

 

映画は、「なぜ君は総理大臣になれないのか」、「香川一区」、「かがみの孤城」を見た。

 

「なぜ君は総理大臣になれないのか」と「香川1区」は、立憲民主党の支持者でなくても、自民党の支持者でも楽しめるドキュメンタリー映画。若い人も選挙を面白がれるきっかけになりうる映画だと思う。香川旅行に行く前に見ておけば良かった。「香川1区」の終盤の娘さんのスピーチにグッときてしまう。

 

かがみの孤城」は、辻村深月原作だから見に行った。僕の家からいちばん近い映画館は、西新井のTOHOシネマズで、運動不足だから1時間弱自転車をこいで見に行った。お昼ご飯はムルギーカレーを食べる。頭に思い描いていた味と乖離があって、あまりおいしく感じなかったが、店員のおばちゃんがとても親切だったし、良い店であることは間違いない。初詣も西新井大師で済ます。済ますという言葉は不適切だが、このとき、ここで済ませればいいじゃん、と思ったことは確か。おみくじは大吉。願望が「必ず叶うだろう。信じて過ごしなさい」と書いてあった。信じるので、叶ってほしい。甘酒を買いたかったけれど、映画の時間に間に合わなそうで断念する。

 

かがみの孤城」は、生きづらさを感じる中学生たちの話だ。原恵一監督作品ということを最後のスタッフロールで知る。ミステリー要素の部分に多少の無理があるのも否めないが、グッときた部分は生きづらさを抱えている、もしくはかつて抱えていた人たちの救いのきっかけになろうという志が作品全体を貫いているということだ。手を差し伸べる行為の美しさだけで泣けてしまうね。

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おみくじの健康の欄に「命に別状はないが、長引くことも」とある。これは今の体調不良のことを言っているのだろうか。夜更かししているとはいうものの、睡眠時間は確保できているから、体調不良が長引いているのは夜更かしのせいではないということで、ここは一つお願いします。

退屈な正月

正月、テレビを見ていても無性に退屈を感じて、外に出る。実家に帰ってるときはコメダ珈琲に行って、時間を潰すのだけれども今年はいつもより混んでいたから、ミスタードーナツで時間を潰していた。ミスタードーナツはコーヒーおかわり自由だから長居しやすい。pomeraを起動させて文字を適当に打ち付けて、実りのある時間としてやろうと企むけれど、集中力はそんなに続かない。Podcastの番組でアジカンの「転がる岩、君に朝が降る」が触れられていたから、流れでアジカンの曲をたくさん聞いているとあっという間に日は傾いていく。「転がる岩、君に朝が降る」の青臭い純度一〇〇%の希望を持つ男の子って感じが好き。

 

新年一発目の脳盗で、正月は少女漫画のギャグみたいなものだ、とMONO NO AWAREの玉置周啓が喩えていて、めっちゃわかるなあと感心していた。自転車で小一時間散歩する。図書館は当然のように休館中なのだけれど、なぜか隣町の図書館はやってるんじゃないかとわざわざ見に行ったりする。広めの公園まで足を運ぶと凧をあげている子どもが何人かいた。凧なんて正月以外も揚げたらいいじゃないかと風流が何たるかを理解しない僕は思ってしまう。ネットを軽く調べると、健康を祈願するような意味合いがあるっぽい。凧を揚げることは祈りを込めることと捉えた当時の日本人の無邪気さが可笑しく思える。

 

 

 

『THE FIRST SLAM DUNK』をようやく見に行った。こういう人気作を見るときは鑑賞後、podcastを検索して無名な人の感想を聞くのも楽しい。YouTubeは「これを見たら、映画が〇〇倍面白くなる」みたいな解説動画が多くて、それはそれで面白いんだけれど、ダラダラ良かったシーンを話している番組を聞く方が鑑賞後の語りたい欲を満たすのにちょうど良い。ハライチのターンの映画化予想のコーナーを聞き返すのも最高。

 

仕事に関係ない何かを勉強したくなって、漢検準一級の勉強を始めた。類推して読める漢字が多くて嬉しい。訓読み系の問題はほぼ読める。高校時代、漢文を真面目にやっていたおかげだと思う。勉強していて好きだった漢字の読みは「掬ぶ(むす-ぶ)」、水を手のひらで汲むこと。書けるようになって嬉しかったのは「蠟燭」、「蒲鉾」。このペースで合格できるのかは知らない。

振り返り2022

今年は色々なことにチャレンジした年で一〇〇点満点とはいわないまでも、ここ数年ではいちばん充実した年なのではないか。その分、体調を崩す回数もここ数年でいちばん多く、自分の生活を見直さねばとも思う。

 

そう思いたくなくて、言語化してこなかったが、会社で少しずつやりがいを感じることができるようになってきた。今までは労働は糞だ、と思ってきたし、今でもたまに思うけれど、人生の大半の時間を費やす労働に心血注ぎ込むくらい熱中してもいいんじゃないか、と今は思える。熱量のあるものに触れる度にその思いを強くする。後輩も増えてきて、指示される立場から指示する側へ立場は変わり、自分発信で仕事のやり方を見直したり、新しい企画を立ち上げたり、多少なりとも誰かのためになるであろう成果を生み出せているんじゃないか。そういう自惚れに近い気持ちをモチベーションにして仕事をしている。

 

「ブルーピリオド」の1巻でサッカーの試合を見て友達と盛り上がってるときに八虎が「これは俺の感動じゃない」と思うコマがぐさっと刺さる。僕はこの1年、漠然と何かを生み出したい欲にまみれていて、けれどそれをおおっぴらに公言できるほどの勇気はなく、ひそかにブログを書いたり、創作活動のネタを収集していた。仕事以外の場面での自己肯定感の低さは相変わらずだが、来年も引き続きいろいろなことにチャレンジする一年にしてやろうと思っている。

 

以上、簡単な総括と来年の抱負。以下は、今年の面白かったものの振り返り。

 

 

映画

ジョン・ワッツスパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

トビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドトム・ホランドが一堂に会すだけでこれまでのスパイダーマンファンは落涙必死なのだけれど、別世界線ヴィランを救ってやろうという方向で物語が動いていくのがたまらない。ここまでの大作映画でヴィランも救うべき存在として認識したヒーロー映画はなかったんじゃなかろうか。過去2作品の学園もの感も大好きだけれど、スパイダーマンとしての覚悟を決めたラストにとっても感動した。フェーズ4は善悪の境界線があいまいな感じになっていくのか、とも思っていたが、全然そんなことはなくて、今後のMCUは追わなくても良いかなという気持ちになりつつある。ディズニーが絡み出してからのMCUはあまり好きではないなあ。

 

マイク・ミルズ『カモンカモン』

伯父と甥っ子の共同生活を描いた映画。ふたりはわかり合えたようでわかり合えない部分があって、でもわかり合えなさもひっくるめて受けいれるという展開が良い。家族だからといって、100%相手のことを理解する必要はないし、わからない部分があっても信頼関係みたいなものは築けるんじゃないか、そう思った。

 

シアン・ヘダー『コーダ あいのうた』

聴覚障害のある親を持つ子どものことをコーダと呼ぶことをこの映画で知った。両親や兄との会話は手話で行われて、基本的には字幕が付くのだけれど、ラストのハンドサインには字幕が付かない。映画を観た後にラストのハンドサインの意味を調べて、その意味をじんわり噛みしめるところまでがこの映画を観るということだと思う。

 

ポール・トーマス・アンダーソンリコリス・ピザ』

美男美女が出るわけではないこの映画にとびきりの愛らしさを感じる。『フォレスト・ガンプ』ばりに走るシーンが印象的で、良い映画とは走るシーンが最高な映画だと暴論を言いたくなるくらい好き。

 

森井勇佑『こちらあみ子』

不気味さ、不穏さが満ち満ちていて、体力を奪われまくる映画。原作信者も納得させるクオリティだし、今後注目すべき監督のひとりであることは間違いない。

 

ジョーダン・ピール『NOPE』

観ることにまつわる映画であり、観てはいけないものをフィルムにおさめてやろうという欲望に満ちた映画。スマホサイズの画面ではなく、なるべく大きな画面で見ることが推奨される。

 

ドラマ

西田征史『石子と羽男-そんなコトで訴えます?-』

今年もドラマを最後まで観れなかったものが多かった。『初恋の悪魔』、『silent』、『エルピス』…。『石子と羽男』も最後まで観れていないのだけれど、今年いちばん面白かったものは、と問われたら、『石子と羽男』と答えると思う。1話のエッジの効いた展開で引き込まれて、中盤くらいのファスト映画のエピソードの結末に震えた。ネトフリやアマプラのオリジナルドラマも面白いのが多かったらしいが、見逃し続けた。年末年始の休みに『モアザンワーズ』、『初恋』は観ようと思う。

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演劇

ダウ90000『ずっと正月』

ダウ90000は去年のM1の3回戦の動画を見て、好きになって、それ以降の単独公演は見に行っている。再演とかしてくれないかな。

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ロロ『ロマンティックコメディ』

タイトルの割にわかりやすいコメディ感はない。言いよどむシーンは何回もあるし、劇中の読書会で何かがはっきり解読されることもない。「物語と思い出の距離を私は読む」という台詞がやけに染みる。

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劇団ノーミーツ『あの夜を覚えてる』

オールナイトニッポン55周年企画の公演。ニッポン放送の社内を舞台にリアルタイムで配信された公演で、そのコンセプトも含めてめっちゃわくわくしたことを覚えている。ラジオで本音を言い出せなかった千葉雄大が自分をさらけ出したあの瞬間、ラジオ最高~~って気持ちになった。creepy nutsと幾田りらがコラボした「ばかまじめ」はこの一年でいちばん聞いた曲。この企画に関わっている人の何人かはアルピーのANNに関わっているスタッフで、あの熱量のあるラジオをやってきたメンバーだからこそできた企画だったんだろうと胸が熱くなった。TBSラジオ大好きマンだったけれど、ニッポン放送の方が今は好きかもしれない!

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ヨーロッパ企画『あんなに優しかったゴーレム』

いるはずもないゴーレムを信じる町に来たドキュメンタリー番組のクルーは最初、馬鹿にしていたけれど、やがてゴーレムがいるかもしれないと信じ始める話。ペガサスも登場し始めて、笑える場面も多々あるけれど、本当はゴーレムはいないかもしれない、という不穏さも通底していて、面白かった。

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ナカゴー『ていで』

正直言うとそんなに好きではなかったはずなのだけれど、最近三井不動産のCMの広瀬すずの「やめてよ~」の台詞を耳にする度、この舞台の一場面を思い出してしまって、好きになってしまった。

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漫画

尾田栄一郎ONE PIECE

まさか自分がここまで『ONE PIECE』にどハマりするとは思わなかった。どこかで書いた気がするけれど、『ONE PIECCE』は継承の物語で、先人たちの意思を継ぐ者としての麦わらの海賊団の動向をこれからも本誌で追いかけたい。

 

 

つるまいかだ『メダリスト』

結束いのりの母親は毒親っぽく描かれているんだけれど、最近読み返したらちゃんといのりちゃんを認めてあげることができていて、ちゃんと成長している。親も人間なんだなと素朴に感じる。コーチの綾小路司といのりちゃんの関係性はその年齢差から親子っぽく描かれるのかなと思っていたけれど、お互いを信頼して尊重していて、バディもののように描かれる。これからの物語もめちゃ楽しみ。

 

 

 

ラジオ

「奇奇怪怪明解事典」、「脳盗」

Dos MonosのTitan、MONO NO AWAREの玉置周啓のふたりがやっているPodcast番組「奇奇怪怪明解事典」は初回からではなくて、ふたりの関係性が構築され始めた中盤から聴くとどハマりする。この番組をきっかけに知識欲がまたふつふつわいてきて、自分の生活の中に読書する時間が生まれた。好きなエピソードはたくさんあるけれど、ぱっと思いつくのは、zoom会議はなぜしんどいの回。秋からTBSラジオの「脳盗」が始まって、「それってあなたの感想ですよね脳」の回が大好き。あと初めて自分のメールが読まれた思い出深い番組でもある。これからも長く続いてくれ!

 

マヂカルラブリーのANN0」

今までもうっすらマヂラブのことを好きだったのだけれど、ラジオを聴き始めてから大好きになってしまった。野田クリスタルがケータイを買い換える話が大好き。「日常系チーターを闘わせてみたのだが」のコーナーの馬鹿馬鹿しさも大好き。

 

「令和ロマンのご様子」

今年のM1グランプリでファンになってしまったコンビが令和ロマンだ。ドラえもんという使い古されたネタで新しいボケを何個もしているし、くるまがケムリをさわるところが妙にねっとりして気持ち悪いところも好き。stand fmで無料で全回聴けるので、敗者復活戦の動画を見て、好きになった人はぜひ聴きましょう。

 

本と音楽は今回はなし!(寝過ぎて時間なかった)良いお年を!

あたたかいおしぼり

あたたかいおしぼりが出てきて、手を拭くと自分が思っていたより手が冷えていた。思えばこの頃寒くなってきたというのに暖房をまだつけていないであたたかい紅茶を飲んでごまかしている。

 

寒い季節に入るサウナは格別である。同じサウナに週1以上で通い続けて、1年半くらい。色んな時間帯に入るけれど、やっぱり午前中に入るのが気持ち良い。人も少ないし。早朝5時から営業してるから、その時間帯に行くのがベストだけれど、10回に1回しかちゃんと起きれない。

 

今日は午前中にサウナに入ってから、隣駅の図書館まで自転車で向かう。家の近くには本屋がないとよく嘆いていたけれど、隣駅まで自転車をこげば図書館があることに思い至り、何も予定のない休日は足を運ぶようになったのだ。どこで見聞きしたか覚えていないが、本屋の数はどんどん減っているけれど、図書館の数は最近増えているらしい。そういえば、新しい商業施設の上階に図書館があるところをたまに見かける。商業施設に入っている図書館は、ビジネス書、実用書の比率が高くて、思っていた図書館とちがうなと踵を返してしまうことが多い。

 

図書館に着いて、まず絵本コーナーへ向かう。最近お付き合いを始めた方が「こんとあき」のLINEスタンプを使っていて、どんな本なんだろうと気になっていたのだ。絵本コーナーの棚をまじまじ眺めるのは小学生低学年ぶりで面白い。背丈の違う絵本が同じ棚に収まっているからか、探すのに苦労する。何なら著者順に並んでいない。こどもが手に取って適当に戻したに違いない。気になって絵本を取り出す、その行為の残滓を感じて、本棚の雑多さは気にならなかった。

 

絵本はすぐに見つからず、司書に声をかける。一緒に本棚を探して「ないですね」と言われ、肩を落とすが、「裏に同じ本あるので、取りに行きますね」とカウンターの裏にある扉の中へ入っていく。そこにも本があるんだなあ、とぼんやり待っていると、無事に本を受け取る。図書館内で早速読む。

 

キツネのぬいぐるみのこんと小さな女の子のあきのお話。あきが生まれる前におばあちゃんにぬわれたこんはあきの前では、気丈にふるまう。その姿が愛おしい。腕がほつれてもだいじょうぶだいじょうぶと声をかけるこんの姿を切なく感じてしまう。

 

 

 

図書館で適当に本を読むのも好きだ。「アンケート調査年間2022」という本を手に取る。この1年間で取られたいろいろなアンケート調査の結果が収録された本。その1年の社会の雰囲気を嗅ぎ取るのにちょうど良い。リモートワーカーへのアンケートで今よりも出社頻度を上げたいと回答した人の理由について、5%くらいの人が「恋愛対象となる人に会いたいから」と回答していた。学校生活と同じようなささやかな楽しみが会社でもあり得ること、それがコロナ禍で損なわれてしまった人がいることに思い至ってなかった。

 

 

 

郷土資料のコーナーを適当に眺める。郷土関連作家のコーナーに深沢七郎の本が置いてあった。あれ、深沢七郎って山梨あたりの出身じゃなかったっけとスマホで検索したら、1965年くらいから菖蒲町(今の久喜市)にラブミー農場を開設して、定住していたらしい。そのほかにも後藤明生の名前もあった。後藤明生は図書館のある松原団地に住んでいた。当時とは大分様相が変わっているとは思うけれど、この町に後藤明生が住んでいたんだ、と少し嬉しくなる。「挟み撃ち」しか読んだことないけれど。

 

図書館にはボランティアの人がたくさんいて、本を整理していた。おそらく来館者の質問にも答えてくれるんだろう。司書は低賃金だ、という話をよく聞くけれど、今はボランティアで手伝ってくれる人がいてなんとか成り立っている。ボランティアの方とすれ違うたびに少し頭を下げてしまう。

報せ、悼み

駅からの帰り道、会社の後輩と帰っていると、母から電話がかかってくる。ちょうど別れ際だったから、後輩に別れを告げた後、電話に出ると、ペットのお墓を買って、週明けの月曜日にお墓に入れるとのことだった。

 

実家で飼っていた犬は去年の秋に亡くなってしまい、火葬してからは骨壺を家にお供えしていた。もう一年が経っていつまでもそうしているわけにもいかないだろうし、とのことで実家から車で15分くらいのところにある霊園にお墓を買ったらしい。

 

月曜日は仕事で立ち会えないから、お墓に入れる前に実家へ帰る。骨壺の隣に生前元気だった頃の写真を飾っている。スマホに保存した動画を見返すと、足音が聞こえてくるようで今でも生きているんではないかと感じてしまうことがある。最後の方は歩けなくなって、夜鳴きもするし、目も見えなくなっていて、あの頃を思い出すと、あまりにもかわいそうで心が痛む。せめて今は安らかに眠っていてほしい。

 

母に霊園の場所を教えてもらい、下見に行く。霊園は比較的新しく、ここ10年くらいでできたのではないだろうか。少し遠いけれど、静かで緑も多くて良い場所だった。他のペットのお墓を眺めていると、「ありがとう」という墓碑を刻んでいるお墓が多かった。

 

ペットの死は家族や友人、知人の死とは違う重みがある。言語による意思疎通はできないけれど、きっとそこには信頼関係が確実に生まれていたんだろうし、いなくなったときに生まれる感情はいろいろあったはずでそれでも最終的に最後に残した言葉がありがとうなのは胸にせまるものがある。少しずつ記憶が薄れてしまうんだろうけれど、こうやって死を悼む時間、空間があるのは、ありがたい。子どもの頃はお墓参りの意味がよくわからなかったが、こうして身近な存在が死を迎えると、お墓参りをしたくなる気持ちが多少理解できた気がする。

 

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微妙だった本について

ここ数年はあまり本を読めていないから偉そうには語ることはできないが、読者に問いを投げかける一文が差し込まれるような本が好きだ。物語だけを追いかけてしまいがちな悪い読者なので、ページをめくる速度を落として、より深く没頭させてくれるもののひとつとして、僕は問いに強く惹かれる。その問いが明確に回収されなくても良くて、その投げかけられた波紋を追いかけるだけで十分だ。

 

僕が柴崎友香が好きな理由はその問いが世界を拡張してくれるからだ。

 

 それと同時に、さっき道に落ちたドリームキャッチャーが、思い浮かんだ。ネイティブアメリカンが作ったものではなく、形だけ模したただの飾りかもしれない。四百円かそこらの。
 黒灰色の道路に放置されたドリームキャッチャーに、手が伸びてくる。その手が拾いあげる。そのままポケットにつっこむ。
 それを見ている人はいるだろうか。落ちる瞬間をわたしが見たように。わたしのほかにも誰か、その瞬間を、知った人はいるだろうか。

柴崎友香『パノララ』

 

柴崎友香の登場人物はこういう疑問を抱く人物が多い、と思う。誰も気付かないかもしれない些細な出来事をなかったことにしないし、こうありえたかもしれないという可能世界にも思いを馳せながら、今ここの世界を肯定していく。そういうイメージを柴崎友香の描く小説に対して抱いている。

 

反語的な表現も好きだ。ローラン・ビネ『HhHH』という小説の冒頭で、クンデラの作品を言及している。

 

ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある。リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか? 僕の考えでは、クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ。そもそも、架空の人物を登場人物を登場させることほど俗っぽいことがあるだろうか?

ローラン・ビネ『HhHH』

 

クンデラという作家について補足するとプラハの春で政治が大きく揺れ動いていた時代のチェコ生まれの作家で、そういった政治的に抑圧された現実社会を小説に落とし込むことが多かった。現実社会を描いていながら登場人物は架空であることをビネは批判しているのだが、「クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ」とリスペクトが感じられる。ビネの試みが成功したか、失敗したかはさておき、先人の試みを引き継いで、更に優れたものとしようという意図は野心的で好感が持てる。

 

問いを投げかけてはいるものの、好きになれなかった本がある。最近読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』だ。論じているトピックス自体は自分の関心に近いものだったので読んだのだが、好きになれなかった。好きになれなかった要因について整理してみる。

 

 何度も繰り返し時計を見てしまうとき、私たちは単に現在の時刻を確認したいのではない。いま何時何分であるのかを知りたいのではない。そうではなくて、列車の発車までまだどれだけ時間があるのかを知りたいと思っている。
 では、なぜそれを知りたいと願うのか? 目の前に現れている退屈を相手に、あとどれだけこの成果のあがらぬ気晴らしを続けねばならないのか、それを確認したいからである。いま私たちは退屈と闘っているけれども、その闘いがうまくいっていない。だからそれがあとどれだけ続くのかを確かめようとしているのである。
 気晴らしを通じて行われる退屈相手の闘いとはいかなるものだろうか? 言うまでもなく、それは時間をやり過ごすこと、時間がより早く過ぎ去るように仕向けることに他ならない。
 ならば、なぜ時間がより早く過ぎ去るようにしたいのか? 簡単だ。時間がのろいからである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

疑問符による問いを経由した論理展開をしていなければ、僕はひっかかりを感じなかったかもしれない。投げかけられた問いについて、考える余地を与えられない。問いが読者を特定の方向に誘導するための機能が強すぎて、その回答の正しさを疑いながら僕は読み進めることがしばしばあった。

 

 こんなずさんな主張がどうして経済学者の口から出てくるのだろうか。「新しい階級」からこぼれ落ちる人間などたくさんいるに決まっている。そしてまた、仮に「ガレージの職工になった医者の息子」がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。
 にもかかわらず、彼は周囲の「憐れみの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ。まったく恐ろしい事態である。そのような劣等感を生み出すプレッシャーを作り上げ、また増長しているのは、「「新しい階級」が拡大していくべきだ」とするガルブレイズのような経済学者の主張に他ならない。
 あきれたことにガルブレイズ本人も次のように述べている。「この階級〔新しい階級〕の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合の悲しみにくらべれば、封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないであろう」。その通りだ。そしてガルブレイズよ、よく聞け。君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

なぜこのような激しい論調で先人を断罪してしまうんだろうか。著者は果たして断罪できる立場にあるんだろうか。最近読んでいる『因果推論の科学』の一節を引用することで、僕の違和感を表明したい。

 

私は、ここで歴史を書く者が絶対にしてはいけないことをしてしまった。この本では同じようなことをこの先、何度もすると思う。いったい何をしたのか。私がしたのは、現代の科学を知っている者の目で語るということだ。一九六〇年代以降、それは良くないこととされている。このようにはじめからすべてをわかっていたかのように歴史を語る姿勢は、「ホイッグ史観」と呼ばれて軽蔑される。(中略)現代のヒストリーライティングはもっと民主的である。科学者も錬金術師も同じだけの敬意を持って扱う。どのような科学理論も、その時代の社会的状況から自由になることはできないということを常に忘れてはいけない。

ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー『因果推論の科学』

 

犯人をさらしあげるようなものの書き方は支持できない。今の多様性を肯定していく価値観と当時の価値観では大きな差があることに自覚的であらねばならないし、彼の主張がなければ議論を先に進められなかったという事実に向き合う必要がある、と僕は感じる。

 

あまり好きではないものについて、このブログに書きたくはなかったのだけれど、もやっとした感覚を多少なりとも言語化したくなったので書いてしまった。退屈にどう向き合うのか、の結論部分もあまり賛同できないのだが、それは機会があったら触れるかもしれない。

 

では。