on the road

音楽・映画・小説・漫画・お笑い・ラジオの話。

報せ、悼み

駅からの帰り道、会社の後輩と帰っていると、母から電話がかかってくる。ちょうど別れ際だったから、後輩に別れを告げた後、電話に出ると、ペットのお墓を買って、週明けの月曜日にお墓に入れるとのことだった。

 

実家で飼っていた犬は去年の秋に亡くなってしまい、火葬してからは骨壺を家にお供えしていた。もう一年が経っていつまでもそうしているわけにもいかないだろうし、とのことで実家から車で15分くらいのところにある霊園にお墓を買ったらしい。

 

月曜日は仕事で立ち会えないから、お墓に入れる前に実家へ帰る。骨壺の隣に生前元気だった頃の写真を飾っている。スマホに保存した動画を見返すと、足音が聞こえてくるようで今でも生きているんではないかと感じてしまうことがある。最後の方は歩けなくなって、夜鳴きもするし、目も見えなくなっていて、あの頃を思い出すと、あまりにもかわいそうで心が痛む。せめて今は安らかに眠っていてほしい。

 

母に霊園の場所を教えてもらい、下見に行く。霊園は比較的新しく、ここ10年くらいでできたのではないだろうか。少し遠いけれど、静かで緑も多くて良い場所だった。他のペットのお墓を眺めていると、「ありがとう」という墓碑を刻んでいるお墓が多かった。

 

ペットの死は家族や友人、知人の死とは違う重みがある。言語による意思疎通はできないけれど、きっとそこには信頼関係が確実に生まれていたんだろうし、いなくなったときに生まれる感情はいろいろあったはずでそれでも最終的に最後に残した言葉がありがとうなのは胸にせまるものがある。少しずつ記憶が薄れてしまうんだろうけれど、こうやって死を悼む時間、空間があるのは、ありがたい。子どもの頃はお墓参りの意味がよくわからなかったが、こうして身近な存在が死を迎えると、お墓参りをしたくなる気持ちが多少理解できた気がする。

 

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微妙だった本について

ここ数年はあまり本を読めていないから偉そうには語ることはできないが、読者に問いを投げかける一文が差し込まれるような本が好きだ。物語だけを追いかけてしまいがちな悪い読者なので、ページをめくる速度を落として、より深く没頭させてくれるもののひとつとして、僕は問いに強く惹かれる。その問いが明確に回収されなくても良くて、その投げかけられた波紋を追いかけるだけで十分だ。

 

僕が柴崎友香が好きな理由はその問いが世界を拡張してくれるからだ。

 

 それと同時に、さっき道に落ちたドリームキャッチャーが、思い浮かんだ。ネイティブアメリカンが作ったものではなく、形だけ模したただの飾りかもしれない。四百円かそこらの。
 黒灰色の道路に放置されたドリームキャッチャーに、手が伸びてくる。その手が拾いあげる。そのままポケットにつっこむ。
 それを見ている人はいるだろうか。落ちる瞬間をわたしが見たように。わたしのほかにも誰か、その瞬間を、知った人はいるだろうか。

柴崎友香『パノララ』

 

柴崎友香の登場人物はこういう疑問を抱く人物が多い、と思う。誰も気付かないかもしれない些細な出来事をなかったことにしないし、こうありえたかもしれないという可能世界にも思いを馳せながら、今ここの世界を肯定していく。そういうイメージを柴崎友香の描く小説に対して抱いている。

 

反語的な表現も好きだ。ローラン・ビネ『HhHH』という小説の冒頭で、クンデラの作品を言及している。

 

ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある。リアルな効果を狙う子供っぽい配慮から、もしくは最善の場合、ごく単純に便宜上であっても、架空の人物に架空の名前をつけることほど俗っぽいことがあるだろうか? 僕の考えでは、クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ。そもそも、架空の人物を登場人物を登場させることほど俗っぽいことがあるだろうか?

ローラン・ビネ『HhHH』

 

クンデラという作家について補足するとプラハの春で政治が大きく揺れ動いていた時代のチェコ生まれの作家で、そういった政治的に抑圧された現実社会を小説に落とし込むことが多かった。現実社会を描いていながら登場人物は架空であることをビネは批判しているのだが、「クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ」とリスペクトが感じられる。ビネの試みが成功したか、失敗したかはさておき、先人の試みを引き継いで、更に優れたものとしようという意図は野心的で好感が持てる。

 

問いを投げかけてはいるものの、好きになれなかった本がある。最近読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』だ。論じているトピックス自体は自分の関心に近いものだったので読んだのだが、好きになれなかった。好きになれなかった要因について整理してみる。

 

 何度も繰り返し時計を見てしまうとき、私たちは単に現在の時刻を確認したいのではない。いま何時何分であるのかを知りたいのではない。そうではなくて、列車の発車までまだどれだけ時間があるのかを知りたいと思っている。
 では、なぜそれを知りたいと願うのか? 目の前に現れている退屈を相手に、あとどれだけこの成果のあがらぬ気晴らしを続けねばならないのか、それを確認したいからである。いま私たちは退屈と闘っているけれども、その闘いがうまくいっていない。だからそれがあとどれだけ続くのかを確かめようとしているのである。
 気晴らしを通じて行われる退屈相手の闘いとはいかなるものだろうか? 言うまでもなく、それは時間をやり過ごすこと、時間がより早く過ぎ去るように仕向けることに他ならない。
 ならば、なぜ時間がより早く過ぎ去るようにしたいのか? 簡単だ。時間がのろいからである。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

疑問符による問いを経由した論理展開をしていなければ、僕はひっかかりを感じなかったかもしれない。投げかけられた問いについて、考える余地を与えられない。問いが読者を特定の方向に誘導するための機能が強すぎて、その回答の正しさを疑いながら僕は読み進めることがしばしばあった。

 

 こんなずさんな主張がどうして経済学者の口から出てくるのだろうか。「新しい階級」からこぼれ落ちる人間などたくさんいるに決まっている。そしてまた、仮に「ガレージの職工になった医者の息子」がそういうこぼれ落ちた人間なのだとしても、彼はいかなる劣等感も感じる必要などない。当たり前だ。
 にもかかわらず、彼は周囲の「憐れみの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ。まったく恐ろしい事態である。そのような劣等感を生み出すプレッシャーを作り上げ、また増長しているのは、「「新しい階級」が拡大していくべきだ」とするガルブレイズのような経済学者の主張に他ならない。
 あきれたことにガルブレイズ本人も次のように述べている。「この階級〔新しい階級〕の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合の悲しみにくらべれば、封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないであろう」。その通りだ。そしてガルブレイズよ、よく聞け。君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

なぜこのような激しい論調で先人を断罪してしまうんだろうか。著者は果たして断罪できる立場にあるんだろうか。最近読んでいる『因果推論の科学』の一節を引用することで、僕の違和感を表明したい。

 

私は、ここで歴史を書く者が絶対にしてはいけないことをしてしまった。この本では同じようなことをこの先、何度もすると思う。いったい何をしたのか。私がしたのは、現代の科学を知っている者の目で語るということだ。一九六〇年代以降、それは良くないこととされている。このようにはじめからすべてをわかっていたかのように歴史を語る姿勢は、「ホイッグ史観」と呼ばれて軽蔑される。(中略)現代のヒストリーライティングはもっと民主的である。科学者も錬金術師も同じだけの敬意を持って扱う。どのような科学理論も、その時代の社会的状況から自由になることはできないということを常に忘れてはいけない。

ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー『因果推論の科学』

 

犯人をさらしあげるようなものの書き方は支持できない。今の多様性を肯定していく価値観と当時の価値観では大きな差があることに自覚的であらねばならないし、彼の主張がなければ議論を先に進められなかったという事実に向き合う必要がある、と僕は感じる。

 

あまり好きではないものについて、このブログに書きたくはなかったのだけれど、もやっとした感覚を多少なりとも言語化したくなったので書いてしまった。退屈にどう向き合うのか、の結論部分もあまり賛同できないのだが、それは機会があったら触れるかもしれない。

 

では。

ジョーダン・ピール「NOPE」感想メモ

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写真や映画には、見たいという欲望を叶える性質が少なくともあった。エドワード・マイブリッジの馬の走る様子を映した連続写真は、馬がどう走るかを記録するために撮影された。

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ジョーダン・ピール「NOPE」のエメラルドは、この連続写真こそが最古の映画であると主張する。あまりに有名なエドワード・マイブリッジの連続写真に写っている黒人の騎手の名前は全く知られていない。

 

映画の誕生以降、大衆の見たい欲望は拡大し続け、一方で忘れ去られた黒人の騎手のように見られる側はないがしろにされ続ける。作中の「ゴーディ 家に帰る」というシットコムではチンパンジーのゴーディがふいに激情し、演者を襲う。見る/見られるの関係性の反転。

 

Gジャン(作中のUFO)の底の大きな目を見る/見られるの関係性の象徴として考えることはそう難しくない。中盤くらいのシーンでGジャンが去って行った後に満月がぽつんと浮かぶシーンに、映画の創世記の作品のひとつであるジョルジュ・メリエス月世界旅行」を想起してしまう。

 

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月世界旅行」のあまりに有名な、人間の顔をした月の片目に天文学者を乗せた弾丸が打ち込まれるシーンも、実は見ることの搾取性に関する表現だったのではないかと考えてしまう。


終盤の展開に胸が熱くなってしまうのは、作中のキャラ達が見ることの搾取性に気付き、おびえながらもそれでもGジャンを撮影してやろうと、立ち向かっていくところ。それが世界を救うためではなく、有名になって一山築いてやろうという動機だとしても、終盤の展開は映画の肯定であると感じてしまった。

 

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奇奇怪怪明解事典がいちばん興味を引く紹介していると思います。(ネタバレ多いけど、そういうの関係ない映画なので大丈夫)

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これは何のメタファーなんだ、と想像を巡らすことが楽しい映画。小難しいことは置いておいて、IMAXレーザーGTで見ましょう!

残りもののカレー

金曜、友達にビールが半額だからと誘われて、神宮球場へ行った。お昼に後輩とご飯を食べているときに、「明治神宮に野球を見に行くんだ」と話すと、変な顔をされた。神宮球場のことを明治神宮と言い誤ってしまったことに気付き、慌てて訂正する。

 

本当は早上がりするつもりだったけれど、打ち合わせが長引いてしまい早上がりすることは叶わない。一緒に行く友達もプレイボールには間に合わない。社会人生活もそろそろ中堅と呼んで差し支えないくらいになっていて、突発的な業務が発生したら対応せざるを得ないんだろう。残業という言葉は単に「定時後に残って業務をする」という意味であるはずなのに、"残"という文字がお前はまだ仕事が残っているんだろうと会社側の冷たい視線を想起し、主体性を奪われた気になる。残業中の雑談は楽しいけれど、生産性はきっと良くない。

 

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今週夜更かしをして、「三島由紀夫vs東大全共闘」を見た。1969年5月13日、東大駒場キャンパスの900番教室で三島由紀夫と東大全共闘公開討論会が繰り広げられていた。学生の問いかけに三島は真摯に応じていくが、討論はむなしく空転していく。東大全共闘の論客のひとりとして登場する芥正彦の主張は詭弁としか思えなかった。三島を言い負かしてやろうと、論理より言葉の鋭さを選んでいた。

 

太平洋戦争の頃の若者は国の行く末に自分の生死が左右されるという経験を持っている。お国のために命を落とすことが一種の美学ですらあった時代に終戦を迎え、生き残ってしまった者はどのように自分の価値観に折り合いをつけていくのか。三島の思想の変遷を読み解いていきたい気持ちになる。

 

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今週はスペシャルウィークマヂカルラブリーのANN0のゲストにONE PIECE考察系YouTuberであるもっちー先生が登場していた。「ONE PIECE」考察がここまで大きいコンテンツへ成長していることに驚く。なぜ「ONE PIECE」にそこまで夢中になる人が増えているのか。その理由のひとつとして、「ONE PIECE」は次世代に意思を受け継いでいく物語であるからだと言い切ってしまいたい。

 

世界政府に隠蔽された、ポーネグリフに刻まれた空白の100年の歴史。それを読み解こうとしたオハラの学者達はロビンを生かそうとした。ドクタードリトルは人が死ぬときは人に忘れられたときだと叫び、黒ひげは人の夢は終わらねえと馬鹿にする者どもを笑い飛ばす。103巻でもいまだに明かされないその歴史の全貌や先人の意思を夢中になって考察してしまう。

 

最新話まで読んでから、第1話を読み直していくと、ルフィの初登場時、ルフィのTシャツにリレーの最終走者という意味のANCHORという文字がプリントされていることに胸がアツくなる。

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もうすぐ29歳になるからか、結婚する同級生の友達が増えてきた。ライフステージが上がっていて、家庭の話なんかが話題になっていく。昼までぐだぐだ寝てばかりの僕はすっかり取り残された気分になる。「東京タラレバ娘」を読んでこの人達は何をこんなにあせっているんだろう、という気になったが、今は少しわかってしまう。何回も登録しては放置していたマッチングアプリをやってみる。いいねが届くと承認欲求が満たされる。MONO NO AWAREのイワンコッチャナイという曲の「彼女のすり減らした親指にキスを」という一節が好きで、いいねを繰り返す行為をこう表現できるんだ、と感心したことを思い出す。

 

渋谷で奇奇怪怪明解事典のイベントを見に行く約束をした。渋谷でデートって何をすればいいんだ?という話を飲み会で聞こうかと思ったけれど、みんながライフステージが上の話をあまりにするものだから、話し出せなかった。僕のことを無口だという人が多いが、自分をさらけ出す勇気がないだけだ。ブログだとギリギリ自分のことを書ける。内弁慶の極み!

 

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試合の内容はよく覚えていないけれど、ビールはおいしくて、その日のうちに頭痛がする。翌日には頭痛は残っていなかったけれど、土曜日を半日つぶしてしまう。お腹が空いたので、残りもののカレーを温める。

ロロ「ここは居心地がいいけど、もう行く」

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いつ高シリーズは2021年の「ほつれる水面で縫われたぐるみ」「とぶ」で完結したが、またいつ高シリーズを見れるとは思わなかった!

 

三浦さんの自作解説で書いていたことが形を変えて叶ったということで良いんだろうか。

(逆)おとめとシューマイと白子の物語はまだ「いつ高シリーズ」で描ききれていないので、「いつ高シリーズ」という冠を外して、近いうちに書こうとおもっている。

 

lolowebsite.sub.jp

 

左右で舞台が別れている。空間を隔てているけれど、時折空間を軽やかに(スーパーボールが跳ねるように)、またいでしまうのを見ると、演劇って楽しいなと思わずニヤニヤしてしまう。左右両方とも学校の屋上に続く階段の踊り場が舞台で、屋上は窓に映る影で何となく想像できる。

 

文化祭当日、喜劇研究会のひとりが熱で休み、ダブチと机田のふたりでできるネタを急遽練習するシーンから始まる。ショートコント「タイムスリップ」*1。2週間後の自分がやってくるというコントだが、本作はいつ高シリーズから23年経過していて、高校生だった(逆)おとめ、白子は40歳。(逆)おとめはすっかり社会人然としているし、白子は明るいけれど、災害用のホイッスルを首から提げている。実家暮らしで親の視線に嫌気が刺し、家出をした白子は楽しかった高校時代にしがみつくように旧々校舎の屋上に続く階段の踊り場で生活する。

 

もうひとつのコント「ゴミ捨て」では彼女との思い出の品を分別して捨てる。最近のロロ作品は、思い出をそのまま抱き締めるのではなくて、記憶違いを起こしたり、忘れてしまうことも肯定しているように思う。(逆)おとめと白子の出会いのエピソードも白子は曖昧に記憶している。(電話番号をずっと覚えていたのに!)

 

でも、忘れてもなかったことにはならない。高校時代に半径100mしか聞けなかった(逆)おとめのラジオの音源は残っている。誰にも聞かれなかったかもしれないラジオをエイリアンが聴いて、知らない間に地球を救っていることだってある。

 

屋上に続く階段の踊り場という微妙な舞台でダブチと机田がやるコントもきっと誰かが見て、思い出として残っていく。

*1:今の自分とあまりに違いすぎるという設定にラバーガールのコント「過去から来た男」を少し思い起こしたのは僕だけか

生活リズムをぶっ壊すお盆休み

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今年のお盆休みは6連休で、予定が何もなくだらだらと過ごしていたが、例年の夏と違い、喫茶店で時間を潰すことが増えた。社会人の多くがもしかしたらそうなのかもしれないが、家は生活するための場所というより寝るための場所だと身体が記憶していて、終始眠気が襲ってくる。睡魔が家に棲みついているに違いない。睡魔に対応する英語が存在しない。欧米圏では眠気に抗う気持ちが薄いのか。

 

お盆休みの3日目だったか、台風が過ぎ去った後、午前中に洗濯機を回そうとするが、洗濯機の下部からカラカラと金属音が鳴る。まだ買って半年なのに、とげんなりする。午後にはどこか遊びに行こうと考えていたから、出鼻をくじかれてしまった。修理を頼むが、お盆の時期だからか、すぐには修理の人は来てくれない。1週間弱くらいは近くのコインランドリーを使う。コインランドリーをたまにしか利用しないから、利用するたびに料金の高さに驚く。コインランドリーを回している間、文庫本を読んで待っている姿に憧れるが、あまり落ち着かないから家に帰って、ご飯を食べて時間を潰す。

 

ちょうど今日、修理の人が来て、部品を交換してもらい無事に直る。保証期間内なので、修理費用は無料ですんだ。原因は洗濯物の入れすぎ。洗濯槽の6~7割くらいまでしか入れてはいけないみたいで、洗濯槽いっぱいに洗濯物を入れると水を吸って重くなった洗濯物に洗濯機の下のモーター部分が耐えられなくなったらしい。みなさん、気をつけてください。

 

ここ数年でいちばん何もしないお盆休みとなってしまった原因は、アプリゲーム。広告でVampire Survivorsのパクリみたいなローグライクゲームの存在を知り、インストール。1プレイ最大15分なので、時間を無限に費やしてしまう。しもふりチューブに感化され、クイズがやりたくなり、みんはやもインストールし、同じく時間を無限に費やす。生活リズムが崩れてしまい、午前中はずっと寝ていて、午後も二度寝、夜はアプリゲームを無心でやる、というだめな大学生みたいな生活をしてしまう。

 

先週くらいから霜降り明星のANN、オードリーのANNを聞くようになる。粗品が4連休で北海道旅行した話にほっこりする。家族サービスする粗品を全く想像できないけれど、赤ちゃんが寝てるから、ホテルマンに部屋をノックしないでくださいとお願いする描写にもうパパなんだなと思い知らされる。オードリーのANNで家にプリンターがあることはすごい、という話を冒頭でしていて、こういう生活の中の気付きみたいなものに触れられるのがオードリーっぽさあるよな、と思う。最近の学生はノートを貸す、という文化がなくて、LINEでノートの写真を送る、という行為に取って代わっている、という昼のラジオを聞いているときみたいな発見も心地よい。

 

今まで聞いていたラジオでは耐性ができていたのに、新しいラジオ番組を聴くと笑いが我慢できなくなるという経験は多々ある。スーパーでの買い物中に春日が久しぶりに髪を切った話で久しぶりに吹き出してしまうくらい笑ってしまう。マスクをしていてよかった。

 

spotifyの奇奇怪怪明解事典で、オンライン会議はなぜ盛り上がらないかという話をしていた。デジタル空間は情報を圧縮して相手に伝えることに向いていて、情報交換のみにフォーカスされて、脱線しにくい。時間に追われているときのオンライン会議はすぐに終わらせることができることにメリットを感じるけれど、オンライン飲み会の盛り上がりのなさ、心の底から話していない感はたしかにあって、一長一短ある。オンライン会議しているときは、自分の顔を見ている時間が長くて、常に自分を客観視している状態になってしまう、という指摘は鋭い。電話をしているときの相手との近さに比べて、オンライン会議するときのよそよそしさはそれが影響しているのか。

 

ちょっと前のSessionで放送部特集をやっていた。荻上チキさんが浦和西高校出身だったことにも驚きつつ、特集を聞いて、放送部に入ってみたかったと思う。最近、友人におすすめされて、YouTubeで「深夜のラジオを聴き続けて放送委員になった奴」を聞いていたから、尚更だ。永遠にpodcastをやりたい欲が湧き上がるので、誰か背中を押してほしい。

 

お盆休み明け、自分のデスクには帰省した人たちのお土産が積まれている。長期休暇明けの憂鬱が多少紛れるので、このお土産を買う文化は絶やさないでほしい。うちの会社では職場での誕生日プレゼント、バレンタインデーのプレゼントは禁止されている。セクハラ、パワハラが発生する要因になってしまうかららしい。こういうことを見聞きするたび、職場とプライベートをはっきり区別されてしまうことの功罪を考えてしまう。職場の人にプライベートをずけずけ踏み込まれるのには抵抗はあるにはあるが、賃金をもらう場所として割り切るにはあまりに多くの時間を費やしているので、コミュニティとしての一面が完全になくなってしまうのはどうなんだろうか、と思う。

 

仕事終わりの時間を有効活用できる人の生活リズムを知りたい。家に帰るのがだいたい19時半~20時半くらいなのだけれど、もう体力を使い果たしていて、ご飯食べてお風呂に入ったら、もう何かをする気力がなくて、スマホをだらだらイジって寝る、ということが続いている。帰りにファミレスに寄って読書かブログを書けたら良いなとは思うが、ワイシャツをはやく脱ぎ捨てたいし、帰り道にファミレスがない。1日2~3時間、やりたいことをやる時間を捻出するテクニックを教えてほしい。

3年ぶりの……

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コロナ禍で2年連続中止になっていたバナナマンのライブの配信を見た。

 

バナナマンのコントは一人二役演じる系のコントが代名詞だと思う。小道具ひとつで職業も性別も変わる演出とそれを観客に理解させる演技力がずば抜けている。一本目のネタは、教会を舞台にしていて、最後の日村さんのセリフに込められた祈りについて、カーテンコールの際に設楽さんが話されていたが、めちゃくちゃ伝わってますよ、と直接伝えたい。全体的に売れっ子でめちゃくちゃ忙しいふたりが感じている責任みたいなものが少しずつコントの中に織り込まれているように感じた。あー、バナナマンのライブはお笑いというより今バナナマンがどんなことを表現するのだろうか、ということに興味があるのかもしれない。(ブルーベリーのネタが面白かったです)ふたりのコントの黄金期はゼロ年代後半だと思うが、こんだけ忙しいのにコントを作り続けてくれるふたりに感謝したい。

 

なぜか今日も1日仕事をしている。もうそろそろ夏季休暇に入るから、自分だけ異様に日曜出勤していることには目を瞑る。在宅勤務の時はノルマをこなせたら、家事をやるスイッチが入っているので、夕方からカレーを作り始めてた。自炊しようと思ったときにカレー作る割合が異様に高い。そろそろ自炊のバリエーションを増やしたいが、平日夜遅く帰ると自炊する気にならない。帰り道にくら寿司があって、週一のペースで店に吸い込まれてしまう。食事の時にいろんな味を楽しみたいタイプだから、残業で腹を空かせた身体に回転寿司は最適解となってしまうのだ。回転寿司でハンバーグとか回転寿司でしか食べられないネタを食べるのが好き。

 

エンゲル係数が爆上がりの予感なので、なんとか生活を立て直したい。そのためにコロナの感染者が少なくなることを切に願っている。

 

知り合いにおすすめされた「石子と羽男」がめちゃくちゃ面白い。TVerで2,3話が見れなくなってしまっていたので、paraviを契約して、在宅勤務中に垂れ流していた。東大卒のパラリーガルと高卒の弁護士のふたりが日常にひそむ事件を解決していくリーガルもののドラマで、扱う題材が喫茶店での充電、子供のアプリ課金、ファスト映画……、とタイムリーで身近な話題を扱っている。撮影や演出がとても良くて、さすがドラマのTBS…、と思いながら見ていたが、どのエピソードも中盤から終盤の展開に一捻りあるのがとても良い。ファスト映画でファスト映画を作成した被告人が監督に謝る場面で、監督は感情を表に出さないけれど、被告人を許さないという展開が痺れた。加害者側を過度に美化せず、やってしまったことの取り返しのつかなさがちゃんと描かれているのが真摯。

 

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