on the road

カルチャーに関する話。

思い通りにいかない日の話(たとえば4/28)

元々4/28は神田で JAZZ AUDITORIA 2024を観に行くつもりだった。ジャズはまったく詳しくないのだけれど、前職の上司が4/26にそのジャズイベントを観に行って、とても良かったという話をしてくれたのがきっかけである。

 

 

ジャズイベントなんて行った事なくて、『BLUE GIANT』で描かれてたレベルでしか知らないけど、『BLUE GIANT』を読んで、そんなにハードルの高いものではないことを学んでいたので、興味が俄然わいた。

 

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目当てのアーティストはいないから午後にふらっと寄ればいいだろうと午前中はテキトーに散歩していた。自分の家から東急東横線沿線の駅に行くのは案外アクセスが良い事に最近気づいて、そこら辺をなんとなく散歩している。家具屋や雑貨屋を覗こうとするが腹が減って早々にご飯屋探しに切り替える。オシャレな街でのご飯屋さんの選び方がわからない。ましてひとりでぷらぷら散歩していたので、何となく中華屋に入る。セットメニューを頼んだら想像の1.5倍量があって、満腹を通り越して気持ち悪くなる。

 

消化がおさまるまで、チェーン店の喫茶店で時間をつぶす。数日後に控えていた読書会に備えて、『三四郎』をパラパラ読んでみる。東京に憧れて上京してきた三四郎のうだつの上がらない感じが自分に重なる。こってりした描写はほとんどないからうだつの上がらなさも素朴さとしてマイナスイメージをそんなに大きく感じなかった。

 

そういえばTシャツを買いたいと思っていたことを思い出す。デートで服屋を大量に巡った日、スポーツブランドのアパレル、案外かっこいいの多いなと感じていたのだけれど、その日は買わずに見送っていたのが名残惜しくなったんだった。今から買いに行こうと思い立ち、渋谷を目指す。渋谷に行くなら、ル・シネマでやってる『悪は存在しない』も観に行きたくて、16:00の回のチケットを取る。

 

服を買ってから映画までの時間が50分くらい空いたので、サウナ道場に行く。渋谷はどこも混んでいるから、サウナも混んでるんだろうと思っていたら、サウナ道場はそこまで混んでいなかった。サウナは3セットガッツリこなさなくても全然気持ち良い。整わなくてもスッキリすれば良いやの境地。

 

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さっぱりした状態で、ル・シネマへ向かう。ル・シネマは座席間が広くて、脚が窮屈にならなくて快適。ポップコーンは売ってないけれど、タルトタタンが売ってる。

 

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『悪は存在しない』の上映直前、後輩からLINEが飛んできて、映画を観た後飲みに行くことになる。ジャズイベントはその時点で完全に諦めた。

 

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『悪は存在しない』、長回しのシーンが異常に多くて、薪割りのシーンとか川の水を汲むシーンとか日々の生活の瞬間をじっくりカメラにおさめる。単調な作業であるはずの薪割りや水汲みに観客の関心を持続させる画の強さがあった。

 

芸能プロダクションが田舎の町にグランピング場を立てるというので、説明会が開かれる。説明会では丁寧な説明はされず、住民は静かに異を唱える。芸能プロダクション側の態度があまりにも悪くて、なんだこの凡庸な悪者は、と思っていたけれど、中盤芸能プロダクション側の担当者も納得していなかったこととか人としての愛らしさみたいなものが描かれて、丸くおさまってほしいなという気持ちへ変化した。

 

ストーリーはラスト10分くらいまではとても分かりやすい。退屈にも思えるストーリーに対して、画の強さとか劇伴が急に途切れて妙な緊張感がたびたび発生するとか細かいところで濱口監督のすごさを思い知る。衝撃のラストというとあまりにも陳腐なのでそうは評価しないが、ラスト10分で打ちのめされたような気持ちになったことは確か。2時間にも満たない映画なのでまた観たい。

 

その後、池袋まで移動してダラダラ飲んだ。飲み会の場で『悪は存在しない』の良かったところをうまく説明できなかったのがモヤモヤした。

 

オレンジとみかん

少し前からセブンイレブンで「オレンジとみかん」が紙パックのジュース系の列に陳列されていて、オレンジとみかんは区別するのかと思い知った。たしかにオレンジジュースというとき、こたつに入りながら食べるみかんとか給食の時に出てきた冷凍みかんではなくて、皮の分厚い方の柑橘類を想像していた。皮の分厚い方の柑橘の思い出はあまりない。小学生の頃、父がよくわからないタイミングで買ってきて、剥いてあげようかと言ってきたのを覚えているくらいだ。果物ナイフを不器用に扱いながら、果汁まみれの手で渡された気がするけど、それは記憶が捻じ曲がりすぎている気がする。

 

オレンジが不足していることはニュースで知った。記事の中で世界的な果汁不足という言葉が踊っている。果汁不足と表現されると、深刻さが薄れてしまうようでおかしく思う。味覚が繊細ではないので、「オレンジとみかん」を飲んでも、今までのオレンジジュースとの違いがわからなかった。香料とかでうまく調整されてるのかもしれない。

 

マクドナルドでオレンジジュースを頼んで、めちゃくちゃ薄いことがこの2、3ヶ月で2回あった。当時はちゃんと原液を補充してくれよと恨んでいたのだけれど、オレンジが不足しているから、薄かったのかとニュースで見聞きした後でようやく僕はマクドナルドを許したのでした。

詩人の唇と実験【清書】

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女』の読書会のために眠い目をこすりながら、斜め読みしたから、場面描写がよくわからず入り込めなかった。アメリカ文学はそんなに苦手じゃないと思っていたが、ユーモアをたっぷり込められると一歩引いてしまう自分を発見した。でも、好きな描写はたくさんある。たとえば、主人公のマラカイ・コンスタントの好男子ぶりを形容する表現のひとつに「詩人の唇」というものがある。詩人の唇、彼が唇を震わせて発する言葉は詩情にあふれているということなのか、彼があまりに容姿端麗なので、会話している人が発する言葉にすべて詩情を感じ取ってしまうということなのか。詳しい描写はないけれど、詩人の唇、という表現をえらく気に入った。

 

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今年に入ってから、繰り返し伊藤紺の短歌を読んでいる。抽象と具体のバランス感覚が絶妙な短歌が好き。短歌は作者の生活から発せられた言葉として読み取ってしまう。ミュージシャンの歌がミュージシャンのパーソナリティと切り離さずに聴いてしまうのと同じ。

 

口ぐせをうつしあったらばらの花いつまでもいつまでも残るよ

 

恋愛だけでなく、人間関係を築いていく過程で、口癖が移っていくことはあるし、何なら小説や詩、漫画、映画からも影響され、語彙が変化していくことはある。そういう風に影響されながら、思考も変容していく様が面白くて、僕がエッセイ的なもの、日々の生活から滲み出る文章に惹かれるのはそういう語彙が変容していったり、価値観が少しずつ変わっていくのを面白がっているからだ。

 

2020年のコロナ禍以降、日記というものに注目が集まったことは僕も肌感覚で理解していたが、保坂和志佐々木敦の問題意識、小説観の延長線上に山本浩貴が捉えているのが面白かった。

 

果たしてこうしたかたちで保坂と佐々木に見られる書き手の反映を基本とするロジックは、その後、テクスト制作における実存の重視として、かれらの意図からずれつつも時代の推移としては順当に一般化したと考えられます。具体的には「日記」や「随筆」、「私小説」や「生活史(ライフヒストリー)」の流行、そして社会的主題の表出を書き手の実存との関係(の有無)のもとで評価する制作/批評観の主流化といったかたちで。

 

僕は2019年くらいから日記を書く面白みを感じていたんだけれども、それは保坂やミラン・クンデラが文章を書きながら思考していく、そのスタイルに共感したからなんだと思う。様々な表現方法がある中でなぜ言語表現を選ぶのか、ということを山本浩貴は『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』で書いている。僕はそこまで明晰に語ることはできないが、僕はアーカイブのしやすさ、検索のしやすさ、思考の展開しやすさが気に入って、こうしてブログを書いている。社会人になってから明確に形成された価値観のひとつになかったことにしたくない、考えたことはちゃんと形にしたい、というものがあり、今のところはブログの形式で書いている(Podcastを再開したい気持ちもある)。

 

SNSでバズる日記はいまいちノレない。僕から見える範囲なので、一概にそうとは言えないんだろうけれど、日記でもてはやされている記事の多くは文体で評価されている。やけにテンションが高い文章、方言で地域性を押し出す文章、僕はそういう日記の多くが小手先のテクニックばかりが前景化されているうように思い、面白く読めない。

 

僕が好きな日記は、そこにその人なりの論理が展開されている文章だ。言葉尻で読者の興味を引きつけるのではなく、その人の生から滲み出る語彙、価値観で引きつけて欲しい。

 

日記ではないが、たとえばこういう記事。

 

 

「水牛がおぼれて死んだので欠席します」という連絡。普通に考えるとペットが死んだときのようなニュアンスかと思うが、ラオスでは、水牛は資産であり、家計にもろに影響する。そういう自分の価値観とは違う論理が展開されていくことが、最近は特に面白く感じる。

保坂やクンデラは、小説の中で思考を展開する。クンデラは、『小説の精神』で小説について、こう定義する。

 

すぐれた散文形式。この形式において、作者は実験的自我(登場人物)を介して実存のさまざまの重大な主題をとことん考察する。

 

小説には、自らを別の状況へ生まれなおさせ、思考させる引力がある。大学時代、その小説観に惹かれていた。まだ読んでいる途中だが、山本の『新たな距離』で展開されている論理を通して、クンデラの小説観を批判し、乗り越えることができるような気がする。山本はテクストの前の空間、今まさに読み書いている人の生、肉体に着目している。一方、クンデラはヨーロッパの小説史を俯瞰して、小説の存在理由をその内部に展開される論理をもとに見出そうとする。クンデラの小説観も嫌いではないのだけれど、小説の技術が袋小路に入り込んでしまった感が否めなかったので、新しい視点で小説が捉え直せたら嬉しい。

 

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最近新しくはじまったPodcast番組「流通空論」の#3でTaitanが主張していたことの中に「絶対コピーできないのは歴史とかアイデンティティでしかない」、「歴史と関係性だけは置き換わらない」という主張があり、励まされるような気持ちになった。Chat GPTをはじめとした生成AI等、明らかに自分よりも知識を蓄えているものに対抗しうるものは自分の歴史とかアイデンティティ、関係性だ、というのは、自分の生を肯定してくれるし、日記的なものの復興と関連しているような気がしている。

 

詩人の唇と実験④

エッセイ的なものはYouTubeTikTokでも流通していったが、日記の方がいまいちノレないと感じることが多かった。

 

僕から見える範囲なので、一概にはそうとは言えないんだろうけど、日記で持て囃されている文章の多くは文体で評価されてる。

 

やけにテンションが高い文章、方言で地域性を押し出す文章、僕はそういう日記の多くが小手先のテクニックばかりが前景化されてるように思い、面白く読めない。

 

※続きは土曜に。もっとちゃんと書きます。

詩人の唇と実験③

オーケストラのような構成というものを深く考えもせずに昨日書いてしまった。僕は音楽の素養があるわけではないから、滅多なことは言えないのだけれど、オーケストラのような楽曲には主題があり、それが時間を経るごとに変奏していく。

 

半年前から読んでいるリチャード・パワーズの『黄金中変奏曲』に出てくるバッハのゴルトベルク変奏曲spotifyで聞いて、変奏していく楽曲のことを何となく理解した。

 

クンデラは、ある生=主題が色々な要因で変奏し、今ここにある生とは別の生になりうることを音楽的表現や構成を借りながら思考しているんじゃなかろうか、ということを思う。

 

話を戻して(本筋ではなくて脇道かもしれないが)、山本浩貴の本を読み進めている。大体21時半くらいまで仕事して、家に帰るのは22:00前後みたいな日々だけど、25:00に寝ると割り切ってしまえば案外本を読むことができる。

 

2020年のコロナ禍以降、日記というものに注目が集まったことは僕も肌感覚で理解していたが、保坂和志佐々木敦の問題意識、小説観の延長線上に山本浩貴が捉えているのが面白かった。僕もコロナ禍以降、エッセイ的なものに惹かれていった。

 

しかし、SNSで"バズっている"日記や文章にはいまいちノれないことも多かった。

 

※続きは明日書きます。

詩人の唇と実験②

保坂和志クンデラカフカから影響を受けている。カフカの本はあまり読んだことがない。高校生の頃に『変身』を読んで、エンタメ小説ばかり読んでいた僕はあまり内容が分からなかった。

 

書くことで思考する。僕は頭の中だけでロジカルに思考していくことはできない。仕事の場においてもそれ以外の場においても、まず足がかりとなる言葉を探していくところから始める。足がかりとなる言葉を書き、その足場から見える地平を見ながらまた書いていく。その繰り返しで思考が前に進んでいく。そういう瞬間に思考している僕は、主体として思考しているのではなく、書かれた言葉に引きずられる形で思考させられている。思考のクセから逸脱するためにいかに慎重に言葉を選んでいくかが文章がうまくなるポイントなんだろうか、とも思う。

 

保坂和志クンデラは、小説の中で思考する点が共通するけれど、大きな違いもある。それは、保坂和志はジャズ的に文章を書いていくのに対し、クンデラはオーケストラのように緻密に構成された文章を書いている。小説を書く上で、音楽的感性は作家のスタイルに大きく影響するのかもしれない。

 

※明日に続く。

詩人の唇と実験①

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女』の読書会のために眠い目をこすりながら、ななめ読みしたから、場面描写がよく分からず入り込めなかった。アメリカ文学はそんなに苦手じゃないと思っていたが、ユーモアをたっぷり込められると一歩引いてしまう自分を発見した。でも、好きな描写はたくさんある。たとえば、主人公のマラカイ・コンスタントの好青年ぶりを形容する表現のひとつに「詩人の唇」というものがある。詩人の唇。彼の唇から発せられる言葉は詩情に溢れているということなのか、詳しい描写はないけれど、詩人の唇という表現をえらく気に入った。

 

山本浩貴の『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』を読み始めた。僕の好きな小説観のひとつに小説を実験の場と捉えるというものがある。僕が保坂和志クンデラが好きな理由は小説で思考する、新たな生を生きる、みたいなことを大真面目にやってるからである。

 

※明日に続く。