on the road

カルチャーに関する話。

詩人の唇と実験【清書】

カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女』の読書会のために眠い目をこすりながら、斜め読みしたから、場面描写がよくわからず入り込めなかった。アメリカ文学はそんなに苦手じゃないと思っていたが、ユーモアをたっぷり込められると一歩引いてしまう自分を発見した。でも、好きな描写はたくさんある。たとえば、主人公のマラカイ・コンスタントの好男子ぶりを形容する表現のひとつに「詩人の唇」というものがある。詩人の唇、彼が唇を震わせて発する言葉は詩情にあふれているということなのか、彼があまりに容姿端麗なので、会話している人が発する言葉にすべて詩情を感じ取ってしまうということなのか。詳しい描写はないけれど、詩人の唇、という表現をえらく気に入った。

 

f:id:aoccoon:20240407183823j:image

 

今年に入ってから、繰り返し伊藤紺の短歌を読んでいる。抽象と具体のバランス感覚が絶妙な短歌が好き。短歌は作者の生活から発せられた言葉として読み取ってしまう。ミュージシャンの歌がミュージシャンのパーソナリティと切り離さずに聴いてしまうのと同じ。

 

口ぐせをうつしあったらばらの花いつまでもいつまでも残るよ

 

恋愛だけでなく、人間関係を築いていく過程で、口癖が移っていくことはあるし、何なら小説や詩、漫画、映画からも影響され、語彙が変化していくことはある。そういう風に影響されながら、思考も変容していく様が面白くて、僕がエッセイ的なもの、日々の生活から滲み出る文章に惹かれるのはそういう語彙が変容していったり、価値観が少しずつ変わっていくのを面白がっているからだ。

 

2020年のコロナ禍以降、日記というものに注目が集まったことは僕も肌感覚で理解していたが、保坂和志佐々木敦の問題意識、小説観の延長線上に山本浩貴が捉えているのが面白かった。

 

果たしてこうしたかたちで保坂と佐々木に見られる書き手の反映を基本とするロジックは、その後、テクスト制作における実存の重視として、かれらの意図からずれつつも時代の推移としては順当に一般化したと考えられます。具体的には「日記」や「随筆」、「私小説」や「生活史(ライフヒストリー)」の流行、そして社会的主題の表出を書き手の実存との関係(の有無)のもとで評価する制作/批評観の主流化といったかたちで。

 

僕は2019年くらいから日記を書く面白みを感じていたんだけれども、それは保坂やミラン・クンデラが文章を書きながら思考していく、そのスタイルに共感したからなんだと思う。様々な表現方法がある中でなぜ言語表現を選ぶのか、ということを山本浩貴は『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』で書いている。僕はそこまで明晰に語ることはできないが、僕はアーカイブのしやすさ、検索のしやすさ、思考の展開しやすさが気に入って、こうしてブログを書いている。社会人になってから明確に形成された価値観のひとつになかったことにしたくない、考えたことはちゃんと形にしたい、というものがあり、今のところはブログの形式で書いている(Podcastを再開したい気持ちもある)。

 

SNSでバズる日記はいまいちノレない。僕から見える範囲なので、一概にそうとは言えないんだろうけれど、日記でもてはやされている記事の多くは文体で評価されている。やけにテンションが高い文章、方言で地域性を押し出す文章、僕はそういう日記の多くが小手先のテクニックばかりが前景化されているうように思い、面白く読めない。

 

僕が好きな日記は、そこにその人なりの論理が展開されている文章だ。言葉尻で読者の興味を引きつけるのではなく、その人の生から滲み出る語彙、価値観で引きつけて欲しい。

 

日記ではないが、たとえばこういう記事。

 

 

「水牛がおぼれて死んだので欠席します」という連絡。普通に考えるとペットが死んだときのようなニュアンスかと思うが、ラオスでは、水牛は資産であり、家計にもろに影響する。そういう自分の価値観とは違う論理が展開されていくことが、最近は特に面白く感じる。

保坂やクンデラは、小説の中で思考を展開する。クンデラは、『小説の精神』で小説について、こう定義する。

 

すぐれた散文形式。この形式において、作者は実験的自我(登場人物)を介して実存のさまざまの重大な主題をとことん考察する。

 

小説には、自らを別の状況へ生まれなおさせ、思考させる引力がある。大学時代、その小説観に惹かれていた。まだ読んでいる途中だが、山本の『新たな距離』で展開されている論理を通して、クンデラの小説観を批判し、乗り越えることができるような気がする。山本はテクストの前の空間、今まさに読み書いている人の生、肉体に着目している。一方、クンデラはヨーロッパの小説史を俯瞰して、小説の存在理由をその内部に展開される論理をもとに見出そうとする。クンデラの小説観も嫌いではないのだけれど、小説の技術が袋小路に入り込んでしまった感が否めなかったので、新しい視点で小説が捉え直せたら嬉しい。

 

***

 

最近新しくはじまったPodcast番組「流通空論」の#3でTaitanが主張していたことの中に「絶対コピーできないのは歴史とかアイデンティティでしかない」、「歴史と関係性だけは置き換わらない」という主張があり、励まされるような気持ちになった。Chat GPTをはじめとした生成AI等、明らかに自分よりも知識を蓄えているものに対抗しうるものは自分の歴史とかアイデンティティ、関係性だ、というのは、自分の生を肯定してくれるし、日記的なものの復興と関連しているような気がしている。