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『『ボヴァリー夫人』論』を読んでいる。

自分のブログの一番最初に投稿した記事がすごい熱量で書いていて、久しぶりにその熱量で何かをちゃんと書きたいと思った。僕は、小説を精読するような読み方をしていなくて、今までの人生で精読、というか自分の体力を使い果たすくらいに熟読した小説はフローベールボヴァリー夫人』とクンデラ『存在の耐えられない軽さ』、保坂和志『未明の闘争』くらいか。

 

ボヴァリー夫人』をちゃんと読もうと当時思ったのは、ジャン=ピエール・リシャールフローベールにおけるフォルムの創造』が日本で翻訳されたからだったか。あるいは蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』が刊行される直前だったからか。その両方だったかもしれない。それらの偉大な批評家に立ち向かうべく、どれくらい『ボヴァリー夫人』を読む事ができるのか、自分を試すつもりで読んだのを覚えている。

 

しばらく読み返していないので、『ボヴァリー夫人』の詳細を論じることは避けたい。ただ、なぜか頭の中に焼き付いている描写があるので、それを引用したい。

 

 彼女はいつも玄関ステップのいちばん下の段まで彼を見送った。馬がまだ連れてこられていないと、彼女はそこに残っていた。別れの挨拶はすんでいて、もう口は利かず、外気が彼女を包むと、うなじの短いほつれ毛を乱雑に煽り立てたり、腰のところでエプロンの紐を揺り動かし、紐は吹流しのように身をよじったりした。あるとき、雪解けの頃で、中庭では木々の皮が濡れ滴り、建物の雪がとけかかっていた。彼女は戸口に立っていたが、日傘を取ってきて、開いた。鳩の喉の色の日傘を日射しが透過して、彼女の顔の白い肌はちらちら動く照り返しで染められていた。彼女は傘の下の生暖かさに微笑み、そしてぴんとはったモレア地に、水滴がぽたりぽたりと落ちる音が聞こえていた。

 

段落を変えずに「あるとき」から始まる描写が、僕は好きだ。描写の豊かさの割りに唐突に感じてしまうかもしれない、雪融けの頃の小さなエピソードは、彼女、つまりエンマの純白さを表現している、であろうし、彼、つまり、シャルルが往診で通い続けた期間の長さを表現しているとも言える。風が吹いている、とは直接描いてないが、「外気が彼女を包むと、うなじの短いほつれ毛を乱雑に煽り立てたり、腰のところでエプロンの紐を揺り動かし、紐は吹流しのように身をよじったりした」という表現で、風が吹いている、しかもそれは穏やかな風なのだろうと思うし、描写がかなりエンマに接近していて、俯瞰的ではないところもフェチシズムを感じて良い。

 

夏休みに特に予定のない僕はまだ読みきっていなかった『『ボヴァリー夫人』論』を読み進めている。おそらくまた途中で挫折する予感はしているが。この本の冒頭はこのように始まる。

 

 いま、ここに読まれようとしている書物は、題名が誤解の余地なく知らしめているように、『ボヴァリー夫人Madame Bovary(1957)を論じることを目ざす言葉からなっている。いささかそっけなく響きかねない「『ボヴァリー夫人』論」という題名は、この書物をうめつくしている言葉のことごとくがギュスターヴ・フローベールGustave Flaubertの「地方風俗」《Moeurs de province》と副題された長編小説を読むことにあてられるだろうことを、あらかじめ表明するものにほかならない。あるいは、『ボヴァリー夫人』のテクストを批判的かつ分析的に記述し、そこに浮上する予期せぬ齟齬や照応を指摘し、その差異と類似とを意義深く共鳴させようとするテクストがこの書物だといってもよい。それが「テクストをめぐるテクスト」だという意味でなら、メタ=テクスト的ともいえる「批評的なエッセイ」が読まれようとしているのだといいかえてもよい。

 

この回りくどい表現が、全編にわたる。この回りくどい表現で語れば語るほど、テクストの信頼性とか固有性みたいなものが剥奪されていくような感覚に陥っていくのは僕だけだろうか。このブログを書いている時点で僕は1章の終わりまで(86頁くらい)読んでいるが、『ボヴァリー夫人』という小説自体、複数のバージョンがあること、ボヴァリー夫人が名指す対象は3人であり、タイトルである「ボヴァリー夫人」がエンマのことを指しているとは限らない、ということなんかが書かれている。まさに描写のレベルで感じていた信頼性の剥奪というか、思い込みを、実際にことごとく破壊している。思い込みではなく、徹底的にテクストに向き合え、ということだと思うのだが、面白いことに『ボヴァリー夫人』には矛盾が生じている箇所があるのだ。思い込みを排除して、「テクスト的現実」を探るためにはテクストに向き合わなければいけないが、そのテクストは矛盾を内在させている。その矛盾とは、乗合馬車の描写である。

 

「つばめ」と呼ばれるヨンヴィルとルーアンとを結ぶ定期便の乗合馬車について、このように描写されている。

 

車輪が幌の高さまであるので、乗客は外の景色も見えず、肩先まで泥のはねがあがった。のぞき窓のように車体のずっと上のほうについた狭い窓の小さなガラスは、しまっているときには枠のなかでがたがた鳴り、驟雨も完全には洗い落とせない昔からのほこりの層の上に、ところどころ泥のとばっちりがこびりついている。

 

しかし、第三部の五章になると以下の通りになる。

 

やっと四つの腰掛けがふさがって、馬車はがらがらと走り出し、りんごの木が一列に窓の外を流れる。街道は、黄色くにごった水をたたえた溝を両側に、地平の果てまで先細りになりながらえんえんとつづいている。

 

りんごの木が一列に窓の外を流れているのを乗客は見ることができないはずだ。なのにそのように描写されてしまった。文章としては二つともそれぞれ正だが、同じものを表現しているとなると正ではない。しかし、『ボヴァリー夫人』の読者はほとんどその描写の齟齬に気づかないだろう。蓮實重彦は以下のように理由を指摘している。

 

「テクスト」の煽りたてる記憶喪失によって、そのつど、いま読みつつある「文」だけを肯定するしかなく、「テクスト」の全域に視線をはせることなど誰にもできはしないからだ。つまり、意味の異なる二つの「文」は、「テクスト」においては、ともに肯定されるしかないのである。「テクスト」を読むとは、この矛盾、この不確かさ、この曖昧さを受け入れることにほかならず、必然的にその決定不能性と向き合わざるをえない。「テクスト」を読むことが、どこかしら「生」を「生きること」に似ているといわざるをえないのは、そのためである。

 

『テクストの快楽』(バルト 1977)のバルトも書いているように、「『文』は階級的である」からだ。「支配があり、従属があり、内的制辞がある。こうして完結に到る。どうして階級制、開かれたままであることができようか。『文』は完結する」というのが、彼の結論である。いうまでもなく、「テクスト」はこの「完結」を持たない。

 

重大な齟齬ではない限り、「テクスト」を読んでいるその瞬間は、矛盾や不確かさ、曖昧さを受け入れて読んでいる。いささか性急にも感じる論理展開だが、不確かさや矛盾を描くために、肯定するために「文学」はあるのだ、という主張は、上で名前を挙げたクンデラ保坂和志に通ずるものではないか。そういえば、小沢健二の近作「フクロウの声が聞こえる」でも矛盾を肯定していた。

 

いつか本当と虚構が一緒にある世界へ