on the road

カルチャーに関する話。

最近読んだ本、読んでる本、買った本、借りた本

〇最近読んだ本

 

  • 高丘哲次『最果ての泥徒』

f:id:aoccoon:20231025233500j:image

前作『約束の果て 黒と紫の国』を読んでファンになったので、発売してすぐに買った。数年前はamazonで頼むことが多かったのだけれど、最近では本屋で取り置きしてもらうことが増えた。本屋で取り置きしてもらってでも買うことで、少しでも自分の趣味が反映された本が棚に並ぶんじゃないか、という期待。取り置きしてもらった本がレジ奥のキャビネットから取り出される特別感。この本も取り置きしてもらった。

尖筆師とその泥徒のふたりの半生を描いた話。尖筆師というのは、泥で作られた躯体に霊息を吹き込んで、泥徒を創る職業。1890~1910年くらいのヨーロッパを舞台にしていて、当時の情勢が妙にリアルなので、まるっきりファンタジーと言うことでもない。旅順を防衛するため、日本とロシアが戦闘するシーンが相当グロテスクで迫力があった。描写でグッと引き込まれた場面でいちばん印象に残ってる。前作でも感じたことだが、高丘氏は言葉に対して強い信頼を寄せている。言葉によって残すこと、伝えることを小説の根幹にかかわる部分に組み込んでいて、言葉を大事にしたいんだという想いを強く感じる。だから好き。

 

今年、MONO NO AWAREの「言葉がなかったら」をたくさん聴いている。言葉にすることの苦悩とそれでも言葉にしたいという欲求が歌われていて、今の自分のフィーリングにめちゃ合っていた。ひとつひとつの言葉に強度があって、同じことでぐるぐる頭を悩ませている自分を妙に励ましてくれる。『最果ての泥徒』を読んでいるとき、うっすらこの曲が流れていたのである。

 

  • 『14歳からの映画ガイド 世界の見え方が変わる100本』

f:id:aoccoon:20231025233647j:image

友達がこの本をつくるのに関わっていて読んだ。読んだ後で感想を伝えるってことをちゃんとやった。最近ではものをつくる人へのリスペクトが強くなってきて、今後も良い本をつくってほしいと思いながら書いた。読んでいて、書籍と雑誌の違いみたいなことを考えたのだった。キネマ旬報とか映画秘宝の映画誌で映画は紹介されているし、BRUTUSとかPOPEYEみたいなカルチャー誌でも特集が組まれることがあるし、雑誌はビジュアルで映画への興味を誘因できるから、雑誌と映画の相性が良すぎる。一方、書籍という形態で映画を紹介しているものって案外少ないように感じている。批評の文脈とかそういうもので見かけることはあるにせよ、中高生が映画を知ろうとして雑誌ではなく、書籍を手に取ることは本当に少ないんだと思う。ざっくり今やってる映画の情報を収集するとき、僕はTwitter*1かfilmarksを使う。

 

じゃあ、雑誌とどう差別化するのって考えたときに書籍は雑誌よりも書き手の存在が大きくなりうるし、文字数も大きく割けると思うから、エッセイ的なもの(書き手の側の個性とか人生観とか経験みたいなものが滲み出すようなもの)で映画を語るという手法がアリなのかも、って『14歳からの映画ガイド』を読んで思った。映画ガイドとはいうものの、映画史的な文脈で映画作品を語るようなことをしないから、観なきゃ、って義務感を覚えさせてしまうよりは観てみたいなという興味を湧かせることをイメージしたんじゃないかみたいなことを考えながら読んだ。映画好きというよりはもう少し手前の読者に向けて、もっと言うとこれから背伸びして本やら映画、漫画に触れていくのだろう人に向けて本を書いている印象。寄稿者によって、14歳、という世代に向けての語りかけが説教臭く感じて、しゃらくせえ!って思うけれど、そういう人ばかりではなかったので、全体として楽しく読んだ。面白く読めたのは、桜庭一樹、済東鉄腸、ぬまがさワタリ、大島育宙桜庭一樹が取り上げていた優しさと正しさのバランスみたいなものを今年ずっと考えていたので、思いがけずそういう文章に出逢って嬉しかった。

 

  • キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』

f:id:aoccoon:20231025233722j:image

韓国SFが盛り上がっているらしいけれど、間違いなくキム・チョヨプの才能による部分があると思う。キム・チョヨプの作品を通して、やさしさに触れられる感覚があって、めちゃくちゃ支持したい。今回の短篇集では、世界の知覚の仕方が異なる人々をわかり合おうとする様が描かれている。でも、完全にわかり合うことはない。

 わたしたちは見るもの聞こえるもの、認識の仕方が異なるばかりではなく、本当に、それぞれが異なる認知的世界を生きている。その異なる世界がどうすれば一瞬でも重なりうるのか、その世界のあいだにどうすれば接触面ーーあるいは線や点、共有の空間ーーが生まれうるのかというのが、この数年、わたしが小説を書きながら心を砕いてきたテーマだ。別々の世界は決して、完全に折り重なることも、共有されることもない。わたしたちは広漠たる宇宙を、永遠にひとりで漂う。
 でも、ハロ-、とこちらから手を振れば、ハロー、とあちらから返ってくる数少ない瞬間。それがあってこそ、人を変化させ、振り返らせ、時には生かしめる瞬間。

 そんな短い接触の瞬間を描くことが、わたしにとってとても大切だったのだと思う。

 

最初の短篇「最後のライオニ」はあまりに良くて涙がこぼれてしまった。他に好きだったのは「マリのダンス」、「ブレスシャドー」。

 

〇今読んでる本

 

f:id:aoccoon:20231025233757j:image

有休消化期間中、会いたい人に会う約束をしてたら、長期間旅行に行くということができなくなってしまったので、分厚い本を読んでやろうということで買って読んでいる。二段組みで800頁以上ある。分厚くて博学的な小説が読みたいときはパワーズの本を読む。1752年、イギリスでグレゴリオ暦が採用されて、9/2の次の日が9/14になったっていうエピソードがさらりと登場してきて、こういう雑学的なものを小説から得るの面白い。読みやすい訳ではないけれど、読み進められるだけの魅力がある。主人公のひとりオデイが図書館のリファレンスを担当している様を読んで、図書館に行きたくなる。

 

f:id:aoccoon:20231025233821j:image

久しぶりに読書会をしたいという話になって、読み応えのありそうなこの本を選んだ。あまり本に線を引くのは好きではないのだけれど、自分なりに精読してみたいという気持ちに成り、線を引きながら読んでいる。社会人になって平易な文章ばかり読んでいたから、読む筋肉に負荷がかかっている気分になる。1節の終わりのシーンの描写が漫☆画太郎の劇画チックな絵柄で脳内再生される。

 

冷気に身震いしつつ、僕は歯を剥き出し、石斧のとがった先を腫れに腫れた歯茎へとうちあてた。(中略)ミルク色に血の色の混っているはずの、しかしその大気のなかではただ墨色の、小さな噴水が眼の高さまでピュッとあがった。その弧の向うに、いつの間に戻ってきていたんだか、驚きと怒りに言葉もないアルフレート・ミュンツァーの農夫じみた顔が、あのころのきみの稚く穏やかなアルカイック・スマイルのかわりに、一瞬凝固するかのようで、僕は痛みからじゃなく、不満ゆえの悲鳴を発していた……

 

ギャグ漫画のような変な行為をこうも格好良い描写ができるのかと感動してしまった。

 

〇最近買った本

 

  • 桝野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 桝野浩一全短歌集』

f:id:aoccoon:20231025233852j:image

5年くらい前から短歌を読むようになって、たまに買う。前職の職場の近くの本屋では、埼玉県の片田舎としては珍しく、一つの棚が詩と短歌と俳句の本で埋まっていた。引っ越し先で駅ビルの本屋には詩集コーナーみたいなものがあるけれど、シルバー川柳的な本しかなくて、残念がっていたところ、商店街からひとつ路地に入ったところにある10坪くらいの本屋に詩集がそれなりのスペースを占めていて、思わず買ったのだ。海外文学や人文系の本もたくさん置いてあったので、めちゃくちゃ良い本屋を見つけてしまったと嬉しくなった。店主も気さくな方で本屋を開いた経緯とかこの街のこととかを教えてくれる。

 

  • セシリア・ワトソン『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』

f:id:aoccoon:20231025233917j:image

同じく商店街からひとつ路地に入ったところの本屋で買った。Twitterで見かけて気になっていた本が本棚に並んでいたので、買うっきゃないと思って買った。冒頭で少し触れた言葉への興味みたいなものが表出していることを自覚する衝動買いとなった。

 

〇最近借りた本

 

f:id:aoccoon:20231025233937j:image

図書カードをつくったので、何か本を借りようと思って、最初に借りた本。漫画とか雑誌とかに使われる書体について肩肘張らない感じで語るところが読みやすい。会社で報告書やパワポをつくるとき、大体決まった書式を使っていたのだけれど、色んな書式を使いたくなる一冊だった。

 

***

 

積読本がたくさんあるし、読み切れる気はしませんが、読書時間頑張って増やします。

*1:厄介なユーザーなので、Xではなく、Twitterという言葉に固執する。スペースxしかり、イーロン・マスクがなぜXという言葉を使いたがるのか。Xが変数を意味することと関係あるんじゃないかと邪推しているけど、あんまり調べる気にならない。

引越当日〜翌日の雑記

f:id:aoccoon:20231014164831j:image

東京で自転車に乗る。自転車に乗るのは実家のある埼玉に限られていたから、回遊性の高い都市を自転車で動き回るのは新鮮な感覚だった。意味もなく羽田空港まで自転車を漕ぐ。居酒屋の並ぶ通りを自転車で走り抜けると、東京が遊びに行く場所としてではなく、生活する場所として身体へ灼きついていくように感じる。

 

引越前から目を付けていた銭湯へ自転車で行く。サウナ付きで720円。タオルや化粧水を家から持ってきて準備万端だったはずだけど、シャンプーやボディソープが銭湯に設置されていないことを浴室に入ってから気付く。シャワーで出来る範囲で汚れを落とす。お風呂は42℃台後半で熱い。最近はサウナよりも熱い風呂の方が好き。身体が芯から温まるし、湯上がり後の気持ちよさが違う。45℃前後の風呂もあって、手足が痺れるくらい熱いけれど、無理して入る。熱い風呂と水風呂の温冷交代浴で引っ越し作業の疲れが取れる。とはいえ、頭をちゃんと洗いたくて、家に帰ってもう一回風呂に入る。

 

結婚式の招待状に返事を書く。「様」や「ご」なんかに定規で取消線を書くのがマナーらしい。手元に定規がなかったから、チラシを使って取消線を書いてみる。失敗してしまったけど、気にしないことにする。日付を超える前くらいの時間に外に出て、ポストに投函する。ポストの場所がネット検索できることにいつも違和感を覚える。ポストは街に溶け込み過ぎて、データベース化されうる対象だったんだということ。

 

 

フローリングがダークブラウンなので、家全体が重い雰囲気がする。段ボールを処分したいから、本を床に平置きする。前の家で本棚が壊れてから、ちゃんと本棚を買ってなくて、引越しを機にちゃんと買う。明るい白ベースの本棚で棚板が厚くてたわまないようなやつ。まだ届かない。散歩のついでに花瓶を買う。植物のある生活にしたい。彩りがあると気分が違う。もう少し今の暮らしに慣れたら鉢を買って、ベランダで植物を育てるつもり。カーテンもまだ届かないから、朝日が強烈にベッドに注いで暑かった。

f:id:aoccoon:20231014223919j:image

退職前の日々(挨拶回り編)

もうじき自分が転職することが部署内でオープンにされるだろうと見積もっていたが、相変わらずオープンになる気配がなかった。転職することを既に告げていた後輩からはプレスリリースはいつなんですかと冗談っぽく問われる。こっちが知りたいよと吐き捨てることしかできない。ゴールポストを動かし続けられたので、上司への信頼みたいなものは吹き飛んでいる。引継をしっかりやろうと考えていた1ヶ月前の僕のモチベーションは既に低空飛行となっており、これならば10/1に転職していた方が良かったのではないかとすら思う。

 

9月の中旬、社葬の手伝いをした。もうここ数年元気がなかったのだけれど、会社の役員が株主総会の数日前に病死し、社葬を催すことになったのだ。ここ2,3ヶ月、本社の部長、課長や秘書は慌ただしくしていた。グループ代表の意向で準備段階は一部の者のみで進めていて、僕も詳細を知らない。部長と課長は会議室に出ずっぱりで、総務部の仕事は二の次、三の次という感じだった。事情をなんとなく察することはできたものの、総務部の仕事があきらかに停滞していたし、だからといって、〇〇さんフォローしてね、みたいな調整をお願いする場面もなく、風通しの悪さが極まっていった。

 

僕が入社する頃にはその役員は体調を壊していたから、元気だった頃を知らない。社葬を開くと聞いて、どれだけの人が来るのだろうかと疑心暗鬼だったが、思いのほか参列者が多く驚く。総務部の仕事をしていて、自分と直接的にかかわる人は社内の人ばかりだから、取引先の人が多く参列する姿を見て、会社を運営するということはこれだけの人がかかわるということなのかと素直な気持ちで感心してしまう。僕は参列者に花を渡す役割だった。もうすぐ転職して、この会社からいなくなるから、この場にふさわしくないとも思ったが、会社を辞めることがオープンになっていないが故、仕方がないと割り切る。白い手袋をはめて、礼をしてから一輪の花を手渡す。両手で受け取る人もいれば、片手で乱暴に受け取る人もいて、社葬の場でも案外作法を気にしない人もいるのだなとぼんやり考えながら、ひたすら花を手渡した。社葬も終わりに近づくと、手伝いをしていたスタッフも役割を中断し、祭壇に花を添えて、手を合わせる。社葬の実行委員長を務めていたグループ会社の社長がご苦労様と声をかけてくれる。この社長は会のはじめからずっと、誰よりも参列者に深々と礼をしていて、会社の黎明期を支えた人は違うなと尊敬する。

 

社葬の前後にも避難訓練や安全衛生に関する行事をホールで開催したり、イベントごとがいつも以上に多かった。イベントの忙しさとはやく引き継ぎしたい気持ちの両方で気付かない間にストレスがかかり、背中の筋肉が張って痛くなる。

 

9/21、ようやく部署の人に転職することが告げられる。その場に自分は同席しておらず、上司からメールで「誰々には伝えました」と報告がなされ、肩の荷が下りたような気になるが、自分が辞めることが告げられたときにどんなリアクションをするのか見たいというドッキリ番組のようなグロテスクな欲望を抱えていたので、肩透かしを食らった気分でもあった。弁明の機会というか自分の気持ちを伝える場は設けられないものなのか。

 

その後、部署の人からは腫れ物に触るかのように会社を辞めることに触れてこない。淡々と引継を始めていく。転職することをもう決心していたから今更引き留めて欲しいというわけではないが、やっぱりこの部署を愛せないという思いを強くする。

 

コロナ禍を挟んだこともあるが、会社の人と飲みに行くことが少なかったから、送別会とかそんなにすることもないんだろうなんて思っていたが、ありがたいことに仲の良い人たちと少人数で送別会めいた飲み会を色んな場で催してもらう。楽しければ楽しいほどここから出て行くのか、という感傷的な気持ちになる。最近、キム・チョヨプの『この世界からは出ていくけれど』を読んでいる。日本語版への序章にはこんなことが書いてある。

 

この本の韓国語版のタイトルは『さっき去ってきた世界』です。この短篇集に同名の作品はありませんが、作中人物が今しがた出てきた世界を振り返る場面から切り取ったものです。個々に収録された小説はすべて、自分が属していた世界から他の世界へと旅立ったり、そうして旅立っていく人を見守る話だったりします。

 

f:id:aoccoon:20231001161237j:image

 

転職をまさにしようとしている、今の自分のフィーリングにぴったりで、SFの話なのに自分の感情を言い表す言葉が見つかっていくような気分になる。新卒からその会社で勤めていたので、今年で8年目。小学校生活よりも長い。

 

他の会社のことは知らないが、今の会社では退職する人は最終出社日に社内イントラで関わりのあった人にメールをCCで送る文化がある。全員に挨拶するわけにはいかないから、メールで済ませるということだ。僕も最終出社日に送ろうか悩んでいたが、早めにメールを送って、その上で挨拶とかしちゃった方が良いでしょ。メールの返信も読む時間が取れるし、と同期から飲み会の場でばっさりと言われたので、最終出社日の1週間前に送ることにした。

 

今の会社はグループ全体で5,000人弱くらい。飲み会にもあまり参加しないし、ゴルフ、麻雀をたしなまないからそこまでメールで挨拶する人はいないだろうと思いながら、宛先を加えていったら、300人くらいになった。思い返すと、僕はグループ全体を対象に仕事をすることが多かった。管理職に対する仕事もしていたし、実務者レベルでのやりとりもあったから、簡単にそれくらいの人数になってしまうのだ。

 

いちばんはやく返信してきた人がグループの中でベスト3に入るほどの厄介者の課長だった。本社をとても敵視している人で本社の若手のほとんどが小言を言われて、トラブルになる。僕も1回だけ言われたことがある。その厄介者の課長からの返信がとても残念がってくれてる様子が伝わって、かつ、応援のメッセージをくれたから、とても嬉しかった。それはカネコアヤノの表現を借りれば、お守りみたいな言葉だと思う。

 

夕方に挨拶回りを始める。グループ会社の管理系の部署から健康相談室まで。健康相談室はコロナの時に色々お世話になった人たち。みんな、僕が会社を辞めることになるとは全然思っていなかったらしく、とてもびっくりした様子だった。その後に厄介者の課長の返信を見て、周りがざわついたことを告げてくれた。あんまり関わりがないと思っていた部署に足を運んだときも、総務の人、みんなあらいみたいに仕事してくれれば良いのにね、とか嬉しい言葉ばかりかけてくれる。会社を辞める人に直接悪く言う人はいないんだろうけれど、自部署の冷たい反応と比べると、普通に嬉しい。全然仲の良い人がいないと思っていたところでも良く思ってくれる人はいる。

内定後〜退職前の日々

ここ3週間くらいウソをついているような心持ちである。

 

スカウトがあった会社の役員面接が8/16にあって、当日中に合格連絡が届いて、正式な内定通知があったのが、8/23。でも、まだ部署の人におおっぴらに転職することが告げられず、引継ができていない(それでも仲の良い同僚にはこっそり伝えているのだが)。10月には有休消化に入るつもりだったので、ここまでずるずる先延ばしされる状態に嫌気がさす。他部署との打ち合わせは入り続ける。10月以降のスケジュールの話をしていても、その時に自分はここにはいないのだと後ろめたさがある。会社が運営している地域のお祭りでグループ会社の人が、あらいさん、うちだと人気者なんですよ~、みたいなことを言ってくれた時も純粋な嬉しさを感じれなくなってしまう。

 

上司からは人事と面談するまではまだオープンに出来ないと言われ、人事と面談が終わった後になると、正式に退職願を申請して、それを代表取締役に承認してもらってからでないとオープンに出来ないと言われ、ゴールポストは動き続けている。もう2,3日したらこの後ろめたさから解放されるのだという気持ちでこの2,3週間過ごしているから、自分の気持ちを踏みにじられているような気分になる。2週間くらい放置された人事との面談で(現状に不満があるなら)もっと早く言ってよ~、いくらでも異動させてあげたのに、と若干こちらの非があるように論理が展開されていく様に驚く。でも、転職するから多少の嫌な気分も耐えられる。現代の社会人のリセット願望を叶えるのは転職なのかもしれない。

 

既に転職することを打ち明けていた後輩に飲み会の場で転職をしようと思ったきっかけを問われる。散々面接で話してきたのに、面接で話してきたことは核心めいたものではない気がしてくるから、もう一度記憶をさらってみる。その場ではお金の話とか極めて具体的な話しか思いつかなかったが、つまるところ、"何か面白いことがしたい!でも、ここじゃ出来ない(気がする)"というところに終着するかもしれない。

 

社会人1年目から3年目くらいまではこんな会社すぐに辞めてやる、みたいな気持ちがどこかあったのに、全然仕事は上手くいかなくて、周りからも期待されなくなり、自尊心がなくなり、社会人に向いていないなと感じたあの日々を今でも覚えている。4年目になり、総務部に異動した。色々な部署を経験していたこともあり、周りから期待してもらって、その期待に応えたいと思い、担当する仕事に関する本を数冊読んだりして、少しずつ、ほんとに少しずつ仕事が上手くいくようになった。この頃、『トイストーリー4』、『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』、カネコアヤノ「愛のままを」なんかに触れて、自分の好きなもの、大事にしたいものの方向性を見出したように思う。それは、なかったことにしない(≒ちゃんと言葉や形にする)ということで、全員が全員、上記の作品に触れても、そういう気持ちにはならないのかもしれないが、すくなくとも僕はそういう気持ちになった。ブログもそれまではTwitterで共有してこなかったのに、その頃くらいから誰かに読まれうることをちゃんと意識して書こうと、Twitterでリンクを共有するようになる。直接的に感想をもらうことはないけれど、たまに読んでることを伝えてくれて、その人数が少しずつ増えていて嬉しい。

 

仕事が上手くいくようになると、欲が出て、自分の部署の仕事を立て直したい、と思うようになる。ルーティン的な仕事を効率化したり、台帳を整えて管理しやすくしたり。そして、コロナ禍を迎え、コロナに関するルールを整備する過程で毎週グループ代表に報告したり、充実感を感じていたが、段々と孤軍奮闘しているように感じてしまう。上司・同僚が手をつけなかった電子契約システムの導入を担当したことがその気持ちを感じた大きなきっかけだと思う。他部署や経営者から求められていたものだから、やるしかないと企画書を書いてグループ代表へ報告したり、ルールを整えた。その過程で休日出勤も多くしていたのだが、同僚は見て見ぬふりというか、それは自分の仕事ではないとこちらに目をやらずに目の前の仕事に没頭している様がなんだか嫌だった。全員が全員、仕事に熱意を持って欲しいという気持ちはないつもりだった。でも、この人たちと仕事し続けるのは難しい、と思った。ここにいると、自分が腐ってしまう。

 

そもそも仕事大好き人間ではないという自己認識があって、ブログや創作をする時間を取りたいし、映画や本にもっと触れたい気持ちがあった一方、休日出勤が多くなりつつあったので、今の会社で仕事をやり続けたらやりたいことができないし、決断するなら今なんじゃないか、という気持ちが渦巻いて、転職サイトを登録するに至る。だから、転職先では、仕事以外の部分にちゃんと時間や労力を割かなきゃいけない。こういう愚痴めいたことを書くのはとても好きじゃないのだけれど、これを書かないと前に進めないような気がしたので、書き殴った。

 

***

 

昨日、『ある行旅死亡人の物語』というノンフィクションを読んだ。行旅死亡人とは、名前や住所など身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す法律用語。お世辞にも文章や構成が上手とは言えず、あまり人に勧めることはできない。でも、記者が取材しながら行旅死亡人の生前の様子を慮る感じは好きだった。行旅死亡人は、晩年あまり人とかかわらずに過ごしていたらしく、目撃証言がほとんどない。なぜか人付き合いを最低限にしていたらしく、とても孤独な人生だったんだろうと思う一方、遺品のぬいぐるみに名前をつけて、30年以上大事にしていたことがうかがえる写真を見ると、人付き合いの少なかった、その行旅死亡人がどんな気持ちで日々を過ごしていたのかとても気になってしまう。生前の様子を解き明かすところに焦点を置いて読んでしまうけれど、100%は明かされない。孤独な人でもその人の今を想う人がいるということがこの本で判明する数少ない事実のひとつで、でも、その事実ひとつにとても救いを感じる。

 

f:id:aoccoon:20230918163815j:image

 

***

 

都内の企業に引っ越しするので、都内に引っ越しをしようということで一昨日、内見に行ってきた。今の会社では電車に乗っている時間は5分足らず、通勤ラッシュとは縁遠い場所なので、今の家から1時間半くらいかけて通うのは耐えられないと思ったから、会社の近くに引っ越す予定だ。今まで一人暮らししていたところは実家からそう遠く離れていない。実家の生活圏のゆるい延長線上にあって、実家にいたときとそう変わらない気持ちで暮らしていたが、1時間半くらい離れた場所となると、さすがに生活圏と断絶していて、知らない土地で住むはじめての一人暮らし。内見は2軒だけして、1軒目に内見した場所に決める。今より家賃が倍以上になって恐ろしい。母に引っ越し先を伝えると、おじやおばが住んでいる近くらしい。思えば、母の実家がそこらへんだった(今はもう売却したみたいだが)。全く縁もゆかりもないかといえば、そうではない町だった。近くに銭湯があるっぽいから通勤する際に利用してやろうと思ってる。

 

10月中に引っ越す予定だけれど、有休消化期間中にたくさん散歩して土地勘を身につけねば。

 

***

 

最近、仕事してる時とか頭で流れてる曲。

 

暴力的コミュニケーション

もう1年以上靴擦れしている。サイズの合わない革靴を何も考えずに履き続けた結果なので、自業自得。キズパワーパッドを貼ってみるが、なかなか完治しない。夏期休暇中、友人と遊ぶ予定をまったく入れなかったので、喫茶店に何回か行く以外には実家でぐーたらしていた。この機会に完治してくれと祈るが、マザー2のギーク戦のポーラみたいには祈りは届かない。

 

f:id:aoccoon:20230821232917j:image

 

***


今日は終日研修だった。デール・カーネギーという自己啓発本を何冊も書いているような人のコミュニケーションに関する研修だった。研修終わりに『人を動かす』という本を渡される。自己啓発本は前向きな気持ちになるので嫌いではないのだが、本棚にあまり入れたくなくて、保管場所が悩ましい。

 

座学中心と勘違いして研修に参加したら、ロールプレイイングだらけでびっくりした。あいさつは元気に、相手の名前を覚えよう、聞き手に回ろう、みたいな当たり前の話をロールプレイイングを通すことで、確かに大事かもしれないし、やった方が良いかもしれないという気になる。参加者が少人数だったこともあり、質問も活発に飛び交う。ある人が質問する。「他人に関心を持つにはどうすればいいですか」、講師は鋭い質問ですね、と言い、他の参加者の意見を聞いていく。「全員と仲良くなる必要はないと思う」とか「その人の良いところを見つけようとすれば良いのではないか」とか出てくるけれど、確信に迫ったような気がしない。講師はどういう回答をするのだろうか、と期待していたけれど、講師の側からの回答はなく、次のカリキュラムに進んでいき、もやもやした。

 

そういえば、イギリスの人類学者のブロニスラウ・マリノフスキが自身の本で「民俗学に関して言えば、私は原住民の生活に対してまるで興味を持てないし、その意味を認めているわけでもない。その疎遠なことと言ったら、犬の生活も同然だ」と書いていて、フィールドワークの最前線に立ったような人物でも、興味を持てないことがあるんだと、愕然としたことがあった。だから関心を持てないことは普通にあり得ることなのだと開き直って、割り切ってコミュニケーションを取って大丈夫だとか、そういう話がその場でできれば良かったのだけれど、家に帰ってからふとした拍子に思い出してしまう。自分の記憶力の無さを恨む。

 

東京03の飯塚さんが、新R25のインタビューでこんなことを言っていた。

 

「人間のダメな部分」が漏れ出てる人を見るのが大好きなんですよね。ちょっとプライドが高くて、恥ずかしいところを見せちゃった人がそれを隠そうとしてるのを見て、「うわ~!隠してる~!」って。嫌いになるんじゃなくて、面白がっちゃう。

 

 

嫌な奴を嫌な奴として捉えるんじゃなくて、その愚かしさを楽しむ、みたいなマインドを僕はまだ持ち合わせていない。でも、話のネタにしてやろうというモードになれれば、もしくは自分にもう少し自信を持てれば、そういうマインドで楽しめるかもしれない。

 

今日の研修の中で、デール・カーネギーの言う、他者と信頼関係を構築する原則について、学んだ。たとえば、批判、非難をしないとか。どれもあまりにも正しさを持ったものなのだけれど、しゃらくせえと思う。意見を違える人に対して、批判、非難という暴力的なコミュニケーションを経ずに、わかり合うことができるとは思えない。でも、これはお互いの理解を深めるための原則ではなく、信頼関係を構築するための原則についての話なので、別に分かり合うことは求めてないから間違ってはいないんだろう。昨日の「UR LIFESTYLE COLLEGE」で玉置周啓がこのように話していた。

 

ただ人を傷付けたいとかじゃなくて、暴力的にコミュニケーションを取らないと到達できない結論とかがあるなとTitan君と話している内に実感するようになってきまして。

 

僕は、ありのままの自分で良い的な価値観を良いものとしてきたが、その価値観に手詰まりを感じていたから、暴力的なコミュニケーションも時にはありなんだろうと思い始めている(物理的な暴力ではない)。ありのままのあなたに対して、「いや、こうした方が良い」とか「そうじゃないと思う」みたいな否定というか、相手の人生にかかわっていくような言動について、あなたをまったく否定せずに言うことは不可能なんじゃない?ポリティカルコレクトネスを御旗に掲げたキャンセルカルチャーとかはやり過ぎで、対立を深めていくだけなんだろうけれど。でも意見をぶつけていかないと前に進めない。

 

研修で学んだことで面白かったことは、相手を動かすためには話の冒頭に実例(エピソードトーク)を話して、最後に主張を伝える、と言う構成が良いという話。聞き手は話し手に共感することで強く動機付けされると、研修中で解説されていたが、物語ることの引力みたいなものをデール・カーネギーも理解していたということかもしれない。結論から先に言うことで言いたいことは伝わるけれど、それで相手を説得できるかと言うとそうではない。相手を説得したい時の話法みたいなものに僕らは簡単に心を動かされる(あるいは騙される)。話し下手の僕が取り入れられるかはまったく不明。今度会う時に詐欺師みたいな話し方をしてたら、笑ってその薄っぺらさをダメ出ししてください。

感染と幽霊文字👻

呪術には類感呪術感染呪術の2種類あると言われている。呪いたい誰かを模したわら人形に釘を打ち付けて、その人を呪う、というのは類感呪術に分類される呪術のひとつである。一方、感染呪術は、呪いのビデオを観たら〇時間に死んでしまうといった、感染、伝播していくようなタイプの呪いである。しかし、最近ではゾンビが噛みついた人間もゾンビとなることに関して、呪術の論理ではなく、ウイルスの感染として説明づけることが増えている。

 

星野源が「Pop Virus」で、自身の思惑を遙かに超えて指数関数的に広まった自身の音楽のことを(あるいはもっと広い意味での音楽を)、さらにポップスターを担わされることで精神が蝕まれていく様子を、ポップウイルスとなぞらえたのは2018年のこと。ホラー映画、ゾンビに限らず、ポップカルチャーの中で感染という概念が使われ始めた頃にCOVID-19が流行したと考えてみる。

 

 

COVID-19が流行し始めた頃にSNSで見かけた動画で個人的に印象に残っている動画がある。ヨーロッパ圏で医師を務め、コロナ治療の最前線に立っていた男性がもしかしたら自身も感染しているかもしれないと、目の前に子どもがいるのに抱きしめられず、泣き崩れる動画だ。当時のCOVID-19は潜伏期間が最大2週間で白黒出るのに時間がかかってしまうが故に、感染経路も特定しづらかったし、感染が判明した頃にはもう取り返しがつかないくらい、複数の人と接触してしまっていることも珍しくなかった。感染しているか白黒はっきりしないがゆえにコミュニケーションさえ安易にできなくなってしまうという状況がとても恐ろしく感じた。少なくとも2020年は個人の意思よりも集団の生存が優先されていたと思うし、誰を生かすかの選択を迫られる医療機関が0ではなかったはずだ。でも、他の感染症の例に漏れず、感染していく度、形を変え、弱毒化していき、少しずつ正常化に向かっている。(今でも感染者はいるし、入院患者が増えている、という報道もあるから正常化という表現は妥当でないかもしれない)

 

既にいくつかの映画、ドラマ、小説でCOVID-19に言及する作品があるけれど、今後、この3年間の経験をもとに作られるものが多くあるはずで、直接的に感染症を描かなくても、感染という概念を用いた作品が生まれてくるんだろうなんてことを考えている。

 

***

f:id:aoccoon:20230812161339j:image

 

詠坂雄二『5A73』でも、COVID-19の流行の経験を経て書かれていることは、前書きで読み取れるはずだ。

 

 世界中のひとびとが、日々の関心を感染症に塗り潰された昨今だ。
 しかし、世紀末に少年時代を送り、浴びるように人類滅亡のシナリオを堪能してきた身からすると、現況は書き損じた滅亡譚に感じられる。いや感染症に止まらず、これまでも大震災や原発事故、核実験、気候変動のニュースに触れるたび同じ想いを抱いてきた。「聞いてた話よりマシだよな」「全然文明滅びねーじゃん」というわけだ。
 不謹慎で語弊しかない感想だろう。SNSで吐露すれば炎上を狙えるかもしれない。

 だが現実の禍を薄められたフィクションのように感じていると、人類を滅ぼすウイルスが弱毒化して現れてくれたように思えてくる。対処可能な災禍は、それ自体が将来の滅亡に対するワクチンになりうるのかも、などと。
 あまりに楽観的な視座だろうか? きっとそうだろう。実際に苦労し問題に対処するのは責任ある立場のひとびとだ。無責任な語り部では決してない。しかし、作者などもともとより集団の楽観的な部分が呼吸を始めたような人間だ。つまらない正義を唱えるより愉快な惨劇を語っていたい。それが偽らざる想いである。
 本作は間違いなくそうした気分の下に成立している。

 

この作品では、幽霊文字のタトゥーシールが貼られている死体が複数体登場する。どの死体も自殺のようだが、幽霊文字のタトゥーシールがある故に事件性があるかもしれないと警察が動く。幽霊文字とは、JIS規格に登録されているのに拘わらず、その文字が持つ音も意味も不明な文字のことだ。意味を持たないはずなのに複数の死体に貼られているその文字に対して、何か意味があるのかもしれないと複数の意味づけをしていき、幽霊文字に膨大な意味が込められていく過程が面白い。漢字はZIPファイルだ、と言う人がいる。表意文字であるがゆえに、一字に込められる意味の含有量がひらがなやカタカナより多いのだというが、幽霊文字もZIPファイルのようだ、と思う。

 

幽霊って人に取り憑くものでしょう。取り憑いたら、外見はもう普通の人と変わらないわけで、絵に描いてあっても、見たこっちが人と区別できないというか。

 

 自分でも、不思議なくらい、だから俺はその暃のことを考え続けた。

 文字ならぬ、幽霊にでも取り憑かれたみたいに。

 

僕は、幽霊文字をウイルスになぞらえていると捉えた。ウイルスが感染することの目的は増殖していくことでそれ以外の目的はない。幽霊文字も意味を持たないし、タトゥーシールが貼られていること自体にも意味がないのかもしれない…。そう思いながら、僕は読み進めた。ラストの展開を言うつもりはないので、気になる人は読まれたし。ただ本作で死んでしまった人物たちの何名かは自殺志願者で、その思考回路が妙にリアルで、読んでいると心に澱がたまっていき、精神が少しだけ病んでしまうように感じると思うので、元気なときに読むのがおすすめ。

 

5A73

5A73

Amazon

 

夏は書道!

同じ法人で複数の印章を作る場合には、印影でどの印章で押印したか特定できるように印章に刻む書体は被らないようにする。会社でグループ内の印章を発注するような部署にいるので、書体に関する解像度が多少は高くなる。それでも知らないことばかりで、『とめはねっ!鈴里高校書道部』で、篆書の時代は文字は筆で書かれるものではなく、骨や石に刻まれるものであるから、篆書体はハネもはらいもない書体なのだ、という説明に対して、改めて新鮮に驚く。

 

f:id:aoccoon:20230801210343j:image

 

大学時代、塾講師のバイトをしているときにホワイトボードに書き付ける文字は見栄えが悪く、ペン字でも習おうかとぼんやり考えていた頃、父は既に定年退職していて、こっそりと硬筆を習っていた。父は自室に閉じこもり、自分の努力をさらけ出すこともなく、硬筆を練習していたようで、数年前からどこかの協会から賞を受賞するようなレベルまでになっていた。どれだけすごいのかネットで調べようとしたけれど、書道の団体・協会が無数にあって、門外漢の僕には賞の名前だけではすごさは分からなかった。

 

毎年夏頃に上野の美術館で1週間程度、色んな協会の書道展で受賞した作品が展示されている。毎年、父からチラシをもらうけれど、なかなかタイミングが合わなかったのと、今までは書道に対してたいして興味を持てなかったので、足を運んでいなかった。でも、今年は多少興味を持つようになって、観に行くことにした。

 

マティス展が開催されている東京都美術館の2階の展示室で父の作品が展示されていた。『とめはねっ!鈴里高校書道部』を読んでるから、夏といえば、書道!という気になっているが、思い起こせば、書き初めをするのは正月なので、自分だけのイメージなのかもしれない。硬筆、とだけ聞いていたから、鉛筆で書いているのかと思ったら、万年筆か何かで書いているようだった。くずし字で書かれているその作品を読み解くことは僕には難しかったが、とても高い水準の書なのではないか、と感じた。普段の父の様子と格式高いその書が結びつかない。20数年間一緒に暮らしていても、知らない部分はある。そういうことを思う。

 

f:id:aoccoon:20230801210250j:image

 

刺すような暑さに体力を消耗して、寄り道せずに帰る。その日の夜は隅田川の花火大会があって、テレビ東京YouTubeチャンネルで佐久間宣行とアルコ&ピース酒井健太が生配信していたから観た。花火大会を観に行ったことはないけれど、4年ぶりの花火大会で地元の人が嬉しそうにしていると聞いて、なんだか嬉しくなる。配信にはテレ東の社員が多く出演していて、昔話をしていた。内輪ネタと感じる人もいるのだろうが、仲の良さを感じさせて、テレ東の雰囲気の良さみたいなものが伝わった。

 

 

前日は会社の仲の良い人たちと終電まで飲んでいた。僕は飲み会にあんまり行かないけれど、その人たちはよく飲み会に行く人たちで、〇〇部の部長と飲んだ、あの人は〇〇だ、みたいな話になった。僕は仕事中であれば、他部署の人と飲み会してまで交流を深めようとはしていない。そこまで他部署の人に興味を持てないのはなんでなんだろうか。人柄を知らずに、仕事の進め方みたいな部分しか知らないし、会社の事業もいまいち好きになりきれずにいるから会社の人と仲良くなろうという意識が低いからではないか、と思っている。終電で最寄り駅につくと、近所に住んでいる後輩がたばこ1本いいですか、とたばこを吸い始めて、そこから朝まで立ち話をしてしまう。その後輩とはその日までちゃんと話したことがなくて、実際に話してみたら、自分と同じゆる言語学リスナーだったり、共通点を見つけて、色々話し込む。価値観の違いもお互いが歩み寄れば、会話の面白さにつながる。どうしても外側だけで判断してしまいがちだが、話してみないと分からないことはいまだ多い。

 

f:id:aoccoon:20230801211224j:image

 

***

 

最近、魚豊の『ひゃくえむ。』を読み返した。この漫画はとにかく熱く滾るような気持ちにさせてくれるから好きで、背中を押して欲しくなるような時に読む。主人公のトガシや財津といった才能にあふれていたけれど、心が一度折れてしまった奴らがそれでも諦めきれずにこれしかないと再起する瞬間がめちゃ良い。プロ契約の打ち切りを言い渡されて、「俺はとっくに終わってるんだ」と涙がこぼれて膝を折るトガシが、「全身全霊で勝負するのは、誰かに評価されに行くのは、震える程怖い。憂鬱で、不安で、心配で、辟易して、焦って、悩んで、億劫で、とてつもなく嫌気がさす。でも、少し、本当に限りなく、極、極僅かな一瞬だけワクワクする。その一瞬の為なら、何度だって人生棒に触れる」と、覚悟を決めた瞬間に心躍らない人はいないはず。小学生にさめたリアクションをさせて、トガシを若干痛い奴っぽく描くバランスのよさも良い。僕もそこまで情熱を注ぐことのできる何かを求めているが、今の職場の同僚たちにはその熱量はない。だから、転職活動でもするか、という気になっていて、ビズリーチからスカウトが届いた企業に面接の依頼をして、2日後に一次面接。去年のように、対策不足で落ちないように勉強しなければ。

 

f:id:aoccoon:20230801211200j:image