on the road

カルチャーに関する話。

7/23藤原定家、古代メキシコ

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スタッフの営業トークに乗せられ、まんまと回数券を購入した僕は隔週で整体へ通う。今日でもう三度目なのだけれど、運動を1週間ばかりサボってしまったこともあり、まだまだ身体は凝り固まっている。今回は首回りがひどく固まっていることを指摘される。昨日、銭湯で外気浴中に天を仰いだ時にも首回りの固さを感じていたことを思い出す。日常生活で何かを見上げたり、見渡したりすることがなく、パソコンのモニターばかり見ているからだ。目が痛くなることはないけれど、仕事中にさす目薬が疲れに染み渡るような感覚が年々強くなる。

 

整体の後に上野へ行く。実家にいた時よりも上野に行きやすくなったことに最近気付いた。今の家は不便で仕方ないと思うけれど、近くに長居できるチェーンの喫茶店や熱いサウナ室と冷たい水風呂と薬湯のある銭湯があったり、悪いところばかりではない。上野で特に用があるわけではなかったから、行きの電車で何の展示をやっているか調べたら、「藤原定家ー「名月記」とその書ー」という展示をやっているようだった。『とめはねっ!鈴里高校書道部』を少し前に読んだから、書道を目に焼き付けてやろう、という欲望が渦巻いて国立博物館に行くことにする。いや、『とめはねっ!鈴里高校書道部』を読んだからだけではなくて、最近タイポグラフィに惹かれているのかもしれない。社内ポータルのダサさが耐えきれなくて、自分の担当業務に関する部分だけはせめて見やすくしてやろうとタイポグラフィあデザインに関する雑誌を読み漁って、昼休みに色々イジったりしていたのがここ1ヶ月の話だ。読み漁る、という表現は品がないけれど、僕はそういう読み方をたしかにしている。

 

藤原定家の書は達筆とは言い難いものだった。でも、定家流と称されるほど、独自のスタイルを築き上げているということは伝わった。藤原定家といえば、和歌の人のイメージがあったけれど、「明月記」という日記を数十年にわたって書いていたことを知る。流し読みしかしていなかったので、博物館にいる間は気付かなかったけれど、天文に関しての古い文献として参照されることもある日記でもあるらしい。

 

常設展もざっと見る。博物館の展示は美術館に比べて、あまり物語性を見いだせず、いまいち集中できないと感じてしまう。見る目が養われていないだけな気がするけども。阿弥陀如来の仏像の説明文になぜ前傾姿勢になっているか説明されていた。たしかに阿弥陀如来は前傾姿勢のイメージがある。極楽浄土から臨終者を迎えに来る様をその姿勢で表現しているらしい。面白い。

 

特別展で「古代メキシコーマヤ、アステカ、テオティワカンー」をやっていて、それも観に行った。日本史選択だったから、マヤ文明やらアステカ文明は全然知らず、テオティワカンに関しては言葉自体も初めて知るくらいの無学者だけど、想像以上に楽しめた。人はトウモロコシから作られたみたいな話とか、日本では生まれ得ないだろう神話を見聞きできて楽しい。テオティワカンにはピラミッドが3つある。太陽のピラミッド、月のピラミッド、羽毛の蛇のピラミッド。3つめのピラミッドは、ネットでは羽毛の蛇神殿とも呼ばれるみたいだけど。羽毛の蛇は、太陽がのぼるのを導く明けの明星、つまり金星を表す、ということが音声ガイドで解説されていた。だから、羽毛の蛇だけ異様な感じがするけれど、どれも天体をモチーフにしたピラミッドということらしい。僕も最近、天体に対して興味を惹かれているわけだけれども、こうして展示を観ていると過去のテオティワカンの人々、藤原定家とのうっすらとした連関を感じている。手相占いは統計学なんです、と言われるけれど、それに対して星座占いはその星座の象徴から紡がれるものである、ということを聞いたことがある。天体への興味は科学的な観点でももちろんあるし、星に込められたイメージ群を読み解いてみたいという気持ちもある。国立天文台の定例観望会に行きたいが、予定が合わず、9月末くらいになりそうだ。

 

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一人行動がそんなに苦ではないけれど、自分の考えが凝り固まっていくような気配がある。いや、自分と違う考えに対しての免疫が失われていく気配がある、といった方が正確かもしれない。全員が聖人君子である必要はないのに、それを求めている自分がいる。違う考えをすべて受け入れる必要はもちろんないんだろうけれど、意志の弱い僕は呪いにかかってしまいそうになるので、極論を言うような人とは距離を取らねば。今の自分にうずまくものを何か形に残すまでは。そんな気持ちで今はポメラとにらめっこしている。小袋成彬の「分離派の夏」に収録されている「042616@London」の一節の「芸術とは関わらなくても良いものなんですよ。なくても良いものなんですね。別になくても生きていける。だからほとんどの人は生涯に一つも作品なんか残さないわけでしょ。じゃあなぜ作品を残すか。じゃあ作品を残す人々、芸術家たちはそれを残すかっていうと、作品そのものが必然、小袋くんもそうだろうけれども。それを生み出さなければ前に進めないっていうね、作品という形に置き換えることによってひとつケリをつけていく」がめちゃ分かる、今の自分のフィーリング的に。MONO NO AWAREの新曲の「風の向きが変わって」の制作に関して、脳盗で玉置氏が今までは自分の気持ちを歌えればいいや、という想いで作っていたが、30にして広いところに届いて欲しいという感情が渦巻いて作ったということを言っていた。そのエピソードを聞いた後に聞くと歌詞の「甘ったれたまんまじゃダメか」がより意味を持って響いて、なぜか自分も勇気づけられた気持ちになる。

 

ポラリスからエライへ

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銀杏BOYZがカバーした「MajiでKoiする5秒前」を最近よく聴いている(あの不倫報道とはまったく関係ない)。原曲は1997年。当時僕は4歳だから覚えてはいないけれど、ギャルファッションをした若者であふれかえった時期だったはずだ。渋谷は再開発されて、昔の街並みはほとんど残されていないらしい。渋谷系と称す時のあの文化の発信地であった渋谷をそのままの形で訪れることはもう出来ないのだと思う。色々なものが目まぐるしく変わる渋谷の街で、ハチ公は変わらず待ち合わせ場所であり続けている。少なくとも僕にとっては、ハチ公は信頼することの象徴でもあって、それが残り続けていることが嬉しい。

 

最近、『葬送のフリーレン』を読み返した。勇者ヒンメルの英雄譚を語り継ぐために色々な町で勇者一行の銅像が建てられている。人の寿命の10倍以上あるエルフのフリーレンが未来でひとりぼっちにならないように、自分たちがたしかにここに実在したことを残すため、と勇者ヒンメルはフリーレンに伝えるのだけど、当時のフリーレンはピンとこない。でも、ヒンメルの死後、人間のことをよく知りたいと冒険に出るフリーレンは、町人からヒンメルとの想い出が語られ、あなたがフリーレン様なのですね、と感謝される。回想で登場する度に、ヒンメルの思いやりの深さに胸を打たれ、ヒンメルの存在が読者にとっても段々と大きい存在になっていくというのが不思議な読書体験だと思う。9月末に金曜ロードショーでアニメ化されるらしく、今から楽しみ。

 

 

 

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昨日、『君たちはどう生きるか』をIMAXで観た。ジブリ作品はそこまで観たことがないのだけれど、今までのジブリ作品の中でぶっちぎりで分かりづらいと思う。でも、何か感じるものはたくさんある映画だったことに間違いはない。宮崎駿の人生を総括した映画なのだろうことがビシビシ伝わるし、色々な人も指摘しているように「俺はこう生きてきた、じゃあ君たちはどう生きるか」と自分で生き方を選べ、と言われているように感じた。しかもその問いに目を背けることもできないような抗しがたさもある。事前情報を入れないからこそ、よりこの感覚を強く覚えるんじゃないだろうか、観ようと思っている人は早めに観るべし。

 

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IMAXで映画を観る前の時間で、本屋に寄って辻村深月の『この夏の星を見る』を買って、今日読んだ。2020年、コロナ禍で登校や部活動を制限された中高生たちの話で、この小説に取り入れるスピード感がすごいなと思わず手に取ってしまったのだ。茨城県の高校2年の亜紗、渋谷区の中学1年の真宙、長崎県五島列島の高校3年の円華の3人の群像劇形式で、茨城の高校で実施していた望遠鏡で星を観測するスピードを競うスターキャッチコンテストに興味を惹かれた真宙の1通のメールがきっかけで交流が始まる、というあらすじだけでそんな出来事がコロナ禍にあったのかもしれない、とわくわくしてしまった。違う場所にいても遠く離れていても、同じ空を見ている、というのが臭くなりすぎずに扱っているのも良かった。ネットで調べる限り、そういうスターキャッチコンテストなるもので全国の高校がリモートでつながったということはなかった。『チー地球の運動についてー』を少し前に読んで、天体に興味が湧き始めたタイミングだったので、より『この夏の星を見る』を楽しく読んだ。

 

 

北極星こぐま座α星のポラリスであることは知っていたが、北極星が長い時を経て違う星に変わっていくことを知った。北極星は動かないと学校で習ったけれど、もっと長い年月で見れば、動いている。地球の北極に完全に重なる位置する天体はないからだ。だから時代によって、北極星は違う星になる。今のポラリスの次は、ケフェウス座γ星のエライに変わるらしい。エライが北極星になるのは、西暦4000年頃らしいから北極星になる瞬間を観測するのはほぼ不可能だろう(冷凍保存でもされれば、観測できるかも)。

 

方角を確認するために参照されてきた北極星も、時代が変われば違う星になる。ポラリスからエライに北極星が移り変わるとき、どんな社会になっているんだろうか。

 

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まだ上半期を終えたばかりだけど、今年読んで面白かった漫画の1位になりそうな漫画に出逢った。阿賀沢紅茶『氷の城壁』。少年ジャンプ+で連載中の『正反対な君と僕』を大好きで読んでいたから、最近単行本化された『氷の城壁』も面白いだろうと読んでみたら、大好きだった。汗でテスト用紙が滲んでしまっているのを恥ずかしく思うようなちっさなあるあるエピソードも好きだけど、なにが一番好きになった要因かと言ったら、言語化能力の高さだ。たとえば。第4話「線と壁」で回想されるシーン。こゆんがあまり知らない先輩たちに「俺らん中だったら誰が一番カッコイイ?」と聞かれ、こゆんがどういうノリで聞かれているか分からず、困惑している様子を「かわいい」と先輩たちが腹を抱えて笑う場面で、こういうのはあんまり漫画で描かれてこなかったけど、「これ、めっちゃ嫌だな」と思うやりとりだった。悪意はなくて、どちらかというと好意が含まれている冗談でも、自分の気持ちがないがしろにされている感覚を覚えるし、ほっといてほしいと思って壁をつくるこゆんの気持ちがわかる、と思ってしまった。

 

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こゆんが仲良くなろうと話しかけてくるミナトに対して、「気持ち悪い」と拒絶する。後に、保健室でご飯を食べながら保健室の先生に相談すると「でも、相手に気持ちを伝えることも大事よ。嫌なことは嫌って。もちろんその文相手の意見を聞くことも大切だけど」と言われ、こゆんはこう思う。「「伝える」?違う。あの瞬間、私は腹が立ったから、傷付けにいった。しかも雨宮クンの話も聞かずに。一方的に」。伝えるんじゃなくて、傷付けるための言葉を使った、という表現の的確さにこの漫画は、恋愛漫画としてじゃなくて、他人に対してどう関わっていくかを描いた漫画なのだと更にのめり込んでいった。中心的な人物が4人いるのだけれど、感情の揺れ動きを丁寧に描いてくれるから、みんな好きになる。まだ2巻しか単行本化されていないからLINE漫画で全話購入したけど、単行本も全巻買うと思う。みんなも読むべし。

 

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白目と最近の関心、悩み

課長に自分のデスクトップを見られるのが、嫌なんだよ。居酒屋で先輩がそう愚痴をこぼすのをソフトドリンクを飲みながら聞いていた。課長の席から先輩の席は左斜め前の別の島に位置していて、課長は席を立たなくても先輩が今何をしているのかを見ることが出来る程度の距離にある。だから、課長は時折先輩が今やっている仕事を見ているし、先輩もその視線を背中で感じている。過剰に監視されているようでうんざりしているようだ。僕は適正なマネジメントの範囲内だと感じるが、先輩はそう感じていない。

 

ヒトを除く動物には白目がほとんどない。白目がないということは視線を悟られなくなるということで、捕食活動のために白目を必要としなかったのではないか、ということを動物園で働く人が話していたのをうっすら覚えていた。だから、先輩の話を聞いていると、その視線は白目があるから感じ取れるんだろうな、なんて思う。

 

先輩の愚痴を聞いて、実は耳が痛かった。というのは、僕もよく職場の人のデスクトップを盗み見て、声をかけるからだ。僕の担当業務と直接関係ない仕事をしている人にも声をかけてしまう。Excelに頼り切った仕事をみんなしている一方、Excelの操作も効率的でないと感じるので、もっと良いやり方あるよ、と教えたくなってしまう気持ちからそうしているのだが、それも過剰な監視、いわゆるマイクロマネジメントになってしまうんだろうか。でも、教えたりアドバイスすることで早く帰ることができるなら、少なくともみんなの残業が増えつつある現状においては、今のやり方をしていて良いのではないか、と自分を正当化している。

 

同じ部署の後輩で仕事が思うように進めることが出来ず、ストレスを抱え、体調を崩している様子を見ていると、ほっとけなくなり、たまにご飯に誘う。もう自分はこの部署にいない方がいいんじゃないかと思うんですよ。と話す後輩にいたたまれない気持ちになる。自分自身、社会人3年目くらいまではダメダメで社会人に向いていないんじゃないかとすら思う日々で、ちょっとしたきっかけひとつで仕事が上手くいくようになった経験があるので、そんなことはないと自分の経験を交えつつ伝えるが、なかなか後輩に言葉が届いていかない。こういうときにどんな言葉をかければいいのだろうか。

 

そこまで頭を悩ませる義理はないかもしれない。休日に一緒に遊ぶような仲でもない。後輩の悩みは後輩自身、恋人や家族、あるいは上司が考えるべき問題なのかもしれない。会社の人とそこまで親しくなろうという気もあまりない。でも、社会人生活はどの学校生活よりも長いし、会社もひとつのコミュニティなわけで周りに困っている人がいたら声をかけてしまうのは当たり前でしょ?ここ数週間の僕は、少なくともそういうメンタリティで後輩の悩みに向き合うことにしている。

 

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最近、文化人類学にハマっている。学生時代にはあまり触れてこなかった分野だから、色んな研究にいちいち驚く。文化人類学の面白さのひとつには、フィールドワークによって研究を行っていくことがある。現地に行って、その場所で暮らしていくことでどういう文化かを研究していく。だから、他の学問より身体性が強く表れる学問なんじゃないか、とまだ本を3冊ばかり読んだ浅学な僕は強く思う。

 

その身体性は否定されるものではない。むしろ科学的、近代的視座から語ることは先進国/発展途上国という区別から想起されるような欧米諸国の社会のあり方を特権的に捉えていると、批判の対象に合うこともあるらしい。屁理屈のように感じてしまうかもしれないが、文化人類学を学んでいくと、オルタナティブな社会のあり方はたしかに存在している、と感じる。貨幣経済に依存しなくても、国家が存在しなくても、社会は形成されうることを文化人類学者は学んでいくし、違う文化圏の生活を理解していくことは本当に可能なのか、という他者理解の議論にまで発展していくし、学者の考えが変容せざるを得ないような場面に直面する。

 

つまり、純粋な観察者であることができない。自分もその文化に晒されて価値観が混ざり合っていく。そういう変質が起こっていくことを僕は学問に求めていたので、文化人類学ガチ勢に色々教えて欲しい。

 

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もう少しで30歳になろうとしている。他の人に比べて、歳を重ねることへの恐怖はない。いや、正確に言えば、何もせずに歳を重ねることに対しては恐怖している。先週の脳盗で、歌丸が30歳は第2思春期である、というようなことを言っていた。自分の人生が固まるかどうかの分岐点のように感じる時期であり、前より可処分所得が増え、できることも増えてきた中で何をやるか、を選択しないといけない時期なのである。ひとつひとつの事象で言えば、やりたいことは無数にあるけれど、一方でやりたいことを選択するには、何かを切り捨てないといけないので、何を切り捨てようか、と悩む今日この頃なのである。

言挙げ、あるいは問うこと

母の日にさくらももこ展で買ったキーホルダーと穂村弘の短歌集をプレゼントした。母の日にプレゼントっぽいプレゼントを渡したことがないから、直接ありがとう、とは言い出せなかった。気持ちははっきり伝えた方が良い、ということは色んなところで言われているが、いつでも照れが先に来てしまう。大人になってもいまだに照れが生じてしまうので、単に年齢を重ねるだけでは素直になれないらしい。

 

最近、知った言葉で「言挙げ」という言葉がある。ことばに出して言いたてること、という意味で、昔の日本では、言葉にすること、もっと言ってしまえば文字にすることを忌避するような傾向があったようだ。だから宗教だったり、伝統文化には口伝により後世に伝えていくことを重んじる。

 

自分を正当化しようということでは決してないが、気持ちを直接的に言い表さない所作に非常に魅力を感じてしまう。僕があだち充作品を好きな理由のひとつに、相手への行為をはっきり言葉にして伝えないけれど、裏ではめちゃくちゃ相手を思いやって行動している、ということがあげられる。あだち充はきっと落語からの影響でそういう作品作りをしている。

 

はっきり言葉にされないことで、相手はどう考えているんだろうと想いを巡らせる瞬間、それは問いであり、学問で問いを追求できるその姿勢に通ずるものがある。これを爆笑問題太田光が「芸人人語」の中で良いたとえを使っていた。

 

 

 母親というものは、赤ん坊の頃から、子をジッと観察し続ける。まだ言葉を覚えない時から、表情や体温や鳴き声の違いで、うんちかな? おっぱいかな? お腹痛いのかな? と判断する。何年も何年も。子供がよちよち歩きをし、やがて「まんま」などつたない言葉を覚え、意思表示をし、少しずつ成長して大きくなって、小学校に通うになった時にはその日の表情を見ただけで子供の状態が分かるようになるのではないか、と言う。ある日、学校から帰ってきた時、子供が何も言わなくても、一瞬の様子で「あ、今日はケンカしてきたな」と、「どんなに隠したって、お母ちゃんにはお見通しでしょ? 分かっちゃうでしょ?」と。それは、今までの長い観察があるからなのだ、と。「これが学問なんです」と言う。
 長い時間、見返りも成果も求めず、ただ生かす為、「対象」と向き合うこと。「何を求めているのか。何を必要としているのか」を「問い」続け、答えを探し続ける態度。姿勢。親はちっともそんなつもりはないけど、実は彼らがやってることこそが「学問」なのだという。「学問」とは何も「大学」じゃなきゃ出来ないものじゃない。そんな偉そうなものじゃない。普通に母親が子に毎日していることなんだと言う。

 

そうか、僕はこういう風に何かと向き合い続けたかったのかもしれない。答えを提示してしまうと、もしくは聞いてしまうと問い続けることが難しいから。でも、なるべくなら言葉にできるなら、言葉に残していった方がいいんじゃないか、っていうのが最近の想いだ。三木那由他の「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」という本の中に、わかりきったことをそれでも言うのは、二人の間の約束事の強度を高めるためだ、的なことが描かれていた。好きである、と伝えることで、今後の行動は好きと表明したことの責任が生まれる。そういう責任に対して、煩わしさよりもその責任を引き受けてもいいんじゃないか、と覚悟めいたものを最近考えている。退路を絶ったら、自分は行動できるのか、という実験でもある。そういう退路を断つことのひとつとして、podcastを始めた。まだ2回分しか配信できてないけど。ただでさえ話し下手なのに、ひとりで話すのはまあまあ難しい。録音した自分の声を聞くのも変に感じる。でも、文字に起こすことと同じくらい、口に出して話すことに対して、高揚感みたいなものがある。

 

 

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アーティストの大切な報告とだけ書いて、HPにリンクされている投稿をSNSで見る度、ドキリとする。そこでメンバーが脱退するとかそういった報告があるんだけど、MONO NO AWAREの玉置周啓の報告は人間味というか人柄があふれていて、好きだ(もちろんメンバーの休養発表は悲しかったが)。僕はとにかく無難にやり過ごそうとしてしまいがちだが、こういうところでちゃんと自分の思いの丈をチャーミングに書き続けられるのはうらやましい。自分もこれからはもう少し自由に書いてやろうと思う。

 

 

サウナとカレー/教育担当になった

自分でも忘れていたのだけれど、4月のはじめに休日出勤をしていたようで、振替休日を20日に取った。仕事の日と同じくらいの時間に起きて、家を出る。

 

電車を2回ほど乗り換えながら、流山おおたかの森に降り立つ。駅から2分ほど歩くと、スパメッツァおおたかの森に着く。ここはサウナシュラン2022全国1位に選ばれたサウナで、入館料も比較的安い。基本的なシステムは竜泉寺の湯と同じで、どこか親しみもある。サウナは全3種類、サウナストーブが5基あるドラゴンサウナとセルフロウリュができるメディサウナ、泥パックもできるソルトサウナ。毎時00分になるとドラゴンサウナはオートロウリュで5基全部に大量の水がかけられ、相当な熱さがありたまらない。下段でも十分熱い。メディサウナはセルフロウリュでラドルから3杯水をかけると、一気にサウナ室に蒸気が回る。入っていていちばん気持ち良かったのがこのメディサウナだ。ソルトサウナも都内のサウナでそこまで見かけないから嬉しいし、泥パックもできちゃうのはお得感ある。水風呂も3種類ある。9℃前後のメッツァ冷水風呂と16℃前後の森の冷水風呂、水深157cmの深水風呂。水温一桁代の水風呂をシングルやらグルシンと呼んで有り難がる人もいるようだが、10秒も入ると一気に手足の先が痺れる。隣に43℃強ある熱湯風呂があって、交互に入るとサウナでの温冷交代浴では味わえない快楽を得られる。スパメッツァで何がいちばんおすすめかと問われたら、43℃強の熱湯風呂と水風呂との温冷交代浴と自信満々に答えたい。都内ではしっかり温度の高い風呂はあんまりないから(少なくとも僕がよく行くサウナにはなかった)、ぜひ味わうべきだと思う。この前の日曜に渋谷サウナズに行って、そこはそこでとても良かったんだけれど、満足度はスパメッツァの方が上だった。

 

 

1時間半くらいサウナやらお風呂を楽しんだ後、早々に着替えて退館し、赤坂へ向かう。赤坂の胡粋というカレー屋が少し前から気になっていたのだ。赤坂駅に降りると、ちょうどランチの時間だから、人が賑やかだった。首から社員証をかけている人も多い。色的にTBSの入館証か社員証じゃないかと思う。自分の勤める会社の人はランチに出掛けるときは社員証をポケットやら鞄に閉まっているから、赤坂で働く人は一種ステータスめいたものがあるんだろうか。それとも弊社の社員は自分の勤め先がそこまで誇らしい物なんかじゃないと自虐めいた感情を無意識に抱いているんだろうか。胡粋は地下にあるからすぐに見つからず、多少迷ってしまうが、何とか着く。せっかくの休日だしとラッシーと3種盛りのカレーを頼む。見た目が鮮やかで見るだけで満足する。他のお客さんのお皿はおしゃれだったから、自分のお皿が木のシンプルなお皿だったことを少し残念に思うが、3種類のカレーを楽しんでいるうちに残念な気持ちは隅に追いやられる。

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散歩でもしようかと思うが、サウナを楽しんだ後だったし、空腹が満たされたことで血糖値もほどよく上がり、強い眠気が襲ってきたため、家に帰って昼寝を楽しもうと帰路につく。電車でも寝過ごしてしまうほどの眠気を抱えながら、家に帰り、ベッドに溶け込む。定期的にサウナに入っているから、以前ほどサウナ後に深い眠りに入ることはなかったのだけれど、この日は久しぶりに深い眠りに誘われていった。起きた後の疲労が取れている感覚も久しぶりだ。

 

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茶店で少し肌寒いなとふと感じた。冷房がかかっている。そういう季節になり始めたってことだ。よく行く家の近くのチェーンの喫茶店はなぜか大量にお冷やとあったかいお茶を入れてくれるから、長居しやすい。

 

4月になり弊社にも新入社員が入ってきて、2週間程度の短めの研修を終えて、各部署に配属される。僕の部署にも1人配属され、自分が教育担当になる。業務上の負担は大きくなるのだが、大学時代、塾でバイトをしていた身としては何かを教えるのはどちらかというと好きなので、大変さをそこまで感じていない。僕を知る友人にはきっとあまり信じられないのだろうが、最近では教えるのが上手いとすら言われることもある。お世辞だとしても、言われたときは謙遜の言葉よりもまず照れが出てしまう。中学時代、好きだった女の子に数学を教えてと頼まれて、何とか教えようとあくせくしたのだけれど上手く教えられなかったことがある。それがきっかけとなり、うまく言葉を扱えるようになるためにと塾のバイトをしたのかもしれない。今となっては何が理由か定かではないのだけれど。

 

教えるのは経験も大事とは思うけれど、やはりどれだけ良いインプットができているか、に大きく左右される部分はある。宇多田ヒカルが最近のライブでの質問コーナーで思いをうまく伝えるためにはどうすればいいか、的な質問に対し、どれくらい本を読んでいるか、アウトプットするには良いインプットからと答えていたという話を聞いて、とても腑に落ちたというか、彼女ほどの才能の持ち主でもインプットを重要視している、ということがなんだか嬉しかった。

買い出しと好きな歌

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長風呂をして、風呂上がりに水でも飲もうかと思ったら、空っぽのペットボトルがテーブルにぽつんと立っていた。僕はKIRINの「自然が磨いた天然水」の味が好きで、最近ではそればかり飲んでいるのだが、買い忘れてしまって、予備がない。長風呂のせいで、KIRINの「自然が磨いた天然水」が売っているドラッグストアーがもう閉まってしまったから、コンビニの天然水を買う。プライベートブランドのものといろはすで値段が10円弱違う。プライベートブランドだと、広告費がそんなに発生しないから安いんだろうか、と思いつつ、同じ天然水でこうも値段が違うのかとやっぱり驚く。夜はまだ冷えるけれど、風呂上がりなら心地よい。半袖で出歩くのも久しぶりだな。Homecomingsの「US/アス」、スピッツの「美しい鰭」、Laura day romanceの「書きたい」。最近は好きなアーティストがめちゃめちゃ良い曲をリリースしてくれて嬉しい。イヤホンで音楽を聴きながら帰る。

 

 

 

 

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先週、Netflixで「ちびまる子ちゃん わたしの好きなうた」を見た。わずか90分の本作を彩るのは芝山努湯浅政明らが演出を手がける音楽パートだ。冒頭開始数分、花輪くんと一緒に静岡駅へ向かう際に流れる「1969年のドラッグ・レース」に心をわしづかみされる。しかし、本作を名作たらしめているのは、それだけではない。大筋としては、静岡駅で偶然出逢った絵描きのお姉さんとの出会いから別れまでを描いたもので、至ってシンプルだ。

 

図工の授業で「わたしの好きな歌」をテーマに絵を描くことになって、まる子は音楽の授業で習った「めんこい仔馬」を描くことにするのだが、うまく描けずにお姉さんに相談する。すると、実はその歌は兵隊さんの乗る軍馬になって、遠い戦地に行ってしまうという別れの歌であることを教わり、まる子は泣きむせぶ。そこでお姉さんはこうアドバイスする。

 

この子はいつか仔馬とお別れする日が来るけど、仔馬のことを大好きな今の気持ちは永遠に変わらないっていうイメージの絵にしたらどうかな。

 

「あたしだったらずっと仔馬のことを忘れないもん。いつまでもいつまでも大好きだもん。この歌に出てくる子もきっとそうだもんね」と涙を拭くまる子。大好き、という感情をいつまでも忘れずにいたい、という率直な気持ちを絵に込めていく課程がもう素晴らしすぎる。

 

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友達に教えてもらったPodcastが案外面白い。女子高生と先生のふたりが5分くらい話しているだけなんだけど、高校の空気感を思い出すには最適の番組。冒頭のおはよう、と最後のじゃあね、の言い方が好き。プレイボーイの中吊り広告で、見出しに登場する人に全員さん付けしている、という発見をしたことを報告する回が好き。女子高生の着眼点の良さに感心する一方、先生の凝り固まった価値観とそれを押し付ける感じに若干うんざりする気持ちとこういう先生いたなと懐かしさを少し覚える。

 

ナウいことば

ポケモンのルビーサファイアでなぜか印象に残ってるのが、ナウいことばを教えてくれるおじさんがポケモンセンターにいたこと。

 

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当時、すでに死語になっているような妙にダサいことばを教えてくれるおじさんがなぜか好きで、はじめてアベックって言葉に出会ったのはポケモンだったと思う。

 

同世代に比べてそんなにポケモンを遊んできたわけではないけれど、レジロックやらレジアイスやらレジスチルを捕まえるために点字を読もうとしたり、新しい知識を駆使して冒険していくあのワクワク感は他のゲームでは得難いものだったかもしれないな、と仕事中にふと思った。