on the road

カルチャーに関する話。

言挙げ、あるいは問うこと

母の日にさくらももこ展で買ったキーホルダーと穂村弘の短歌集をプレゼントした。母の日にプレゼントっぽいプレゼントを渡したことがないから、直接ありがとう、とは言い出せなかった。気持ちははっきり伝えた方が良い、ということは色んなところで言われているが、いつでも照れが先に来てしまう。大人になってもいまだに照れが生じてしまうので、単に年齢を重ねるだけでは素直になれないらしい。

 

最近、知った言葉で「言挙げ」という言葉がある。ことばに出して言いたてること、という意味で、昔の日本では、言葉にすること、もっと言ってしまえば文字にすることを忌避するような傾向があったようだ。だから宗教だったり、伝統文化には口伝により後世に伝えていくことを重んじる。

 

自分を正当化しようということでは決してないが、気持ちを直接的に言い表さない所作に非常に魅力を感じてしまう。僕があだち充作品を好きな理由のひとつに、相手への行為をはっきり言葉にして伝えないけれど、裏ではめちゃくちゃ相手を思いやって行動している、ということがあげられる。あだち充はきっと落語からの影響でそういう作品作りをしている。

 

はっきり言葉にされないことで、相手はどう考えているんだろうと想いを巡らせる瞬間、それは問いであり、学問で問いを追求できるその姿勢に通ずるものがある。これを爆笑問題太田光が「芸人人語」の中で良いたとえを使っていた。

 

 

 母親というものは、赤ん坊の頃から、子をジッと観察し続ける。まだ言葉を覚えない時から、表情や体温や鳴き声の違いで、うんちかな? おっぱいかな? お腹痛いのかな? と判断する。何年も何年も。子供がよちよち歩きをし、やがて「まんま」などつたない言葉を覚え、意思表示をし、少しずつ成長して大きくなって、小学校に通うになった時にはその日の表情を見ただけで子供の状態が分かるようになるのではないか、と言う。ある日、学校から帰ってきた時、子供が何も言わなくても、一瞬の様子で「あ、今日はケンカしてきたな」と、「どんなに隠したって、お母ちゃんにはお見通しでしょ? 分かっちゃうでしょ?」と。それは、今までの長い観察があるからなのだ、と。「これが学問なんです」と言う。
 長い時間、見返りも成果も求めず、ただ生かす為、「対象」と向き合うこと。「何を求めているのか。何を必要としているのか」を「問い」続け、答えを探し続ける態度。姿勢。親はちっともそんなつもりはないけど、実は彼らがやってることこそが「学問」なのだという。「学問」とは何も「大学」じゃなきゃ出来ないものじゃない。そんな偉そうなものじゃない。普通に母親が子に毎日していることなんだと言う。

 

そうか、僕はこういう風に何かと向き合い続けたかったのかもしれない。答えを提示してしまうと、もしくは聞いてしまうと問い続けることが難しいから。でも、なるべくなら言葉にできるなら、言葉に残していった方がいいんじゃないか、っていうのが最近の想いだ。三木那由他の「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」という本の中に、わかりきったことをそれでも言うのは、二人の間の約束事の強度を高めるためだ、的なことが描かれていた。好きである、と伝えることで、今後の行動は好きと表明したことの責任が生まれる。そういう責任に対して、煩わしさよりもその責任を引き受けてもいいんじゃないか、と覚悟めいたものを最近考えている。退路を絶ったら、自分は行動できるのか、という実験でもある。そういう退路を断つことのひとつとして、podcastを始めた。まだ2回分しか配信できてないけど。ただでさえ話し下手なのに、ひとりで話すのはまあまあ難しい。録音した自分の声を聞くのも変に感じる。でも、文字に起こすことと同じくらい、口に出して話すことに対して、高揚感みたいなものがある。

 

 

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アーティストの大切な報告とだけ書いて、HPにリンクされている投稿をSNSで見る度、ドキリとする。そこでメンバーが脱退するとかそういった報告があるんだけど、MONO NO AWAREの玉置周啓の報告は人間味というか人柄があふれていて、好きだ(もちろんメンバーの休養発表は悲しかったが)。僕はとにかく無難にやり過ごそうとしてしまいがちだが、こういうところでちゃんと自分の思いの丈をチャーミングに書き続けられるのはうらやましい。自分もこれからはもう少し自由に書いてやろうと思う。