on the road

カルチャーに関する話。

数字と選択肢

久しぶりのブログで、2ヶ月ぶりだ。色々あったんだろうけど、書かなくて良いと思う。

 

数字は便利だ。とみんなは言う。

数字は嘘をつかない。人間の主観なんかよりも数字で伝えた方が信用してくれる。

 

なるほど、確かにそうだ。「昨日、ラーメンたくさん食べたんだよ」と聞いても、どれくらい食べたのか、わからない。その人がいつもラーメンの量を少なめで頼んでいて、昨日だけ大盛りを頼んだのかもしれないし、ラーメン屋をハシゴしたのかもしれない。

 

「昨日、ラーメンを1kg食べたんだよ」と聞けば、「えー、すごいね!」と、相槌を打つし、1kgという量を食べる自分を想像して、「僕なら無理だな」と続けるだろう。

 

その1kgは、麺だけで1kgかもしれないし、器を入れて1kgかもしれないし、ほんとは2kgあるラーメンで、その人は1kgだけ食べて、残りは、周りの人にお願いして食べたのかもしれない。

 

数字は、嘘をつかない。改めて。

ただ勘違いをする可能性というか余地は大いにある。それは僕らのリテラシーの問題だけではなく、言語と数字のことをよくわかってないからだ。

 

言葉はコミュニケーションツール、という主張をよく耳にするが(僕はコミュニケーションツールと言い切ることはできないと思う)、数字とは〇〇だ、という言説はあまり耳にしない。

 

数字は、物を数える時に使う。数えるためにはそこに秩序がないといけない。1gは、国際キログラム原器の質量である1kgを1,000等分した数字だが、先ほどのラーメンの話だと、何を1gとするのかをあらかじめ決めないといけない。(スープも含めるのか、器も含めるのか、つけ麺はラーメンなのか、途中で入れた胡椒はカウントするのか、残した麺はカウントするのか、)

 

数字を使うためには、前提として言語により物事を様々に定義付けされていることが条件なのだが、それをあまり意識することはない。

 

数字自体は信用していいが、どのフィルターを通ってきた数字なのかを読み解く必要があるだろう。と思う。

 

なんで、数字のことを書いたのかわかんない。経理として数字に関わってきたこの1年の総括なのか。

 

僕の興味は、未だに平行世界のことだ。平行世界と書いてはみたけど、「ここではないどこか」を考えたりすること、いつまでもこれで良かったのかをくよくよ悩むこと、自分は幸せではないくせに片思いした相手の幸せを願ってしまうような人のこと、成功できないかもしれないけど、やりたいことをやっている時にほんの少し憧れにつながったと感じる人のことだ。

 

そういった物事、人たちを肯定するために小説を書きたいと思う。

「マスター・オブ・ゼロ」のS1ラストのあのシーンみたいに、恵まれてるが故に何も選べない人が選んだ選択肢というのは絶大に面白いはずだ。

 

結果を出すことよりも、何かを始める時の一歩目が大事だと思っていて、僕はそれを最大限に評価したい。