on the road

カルチャーに関する話。

柴崎友香「公園へ行かないか? 火曜日に」の話を少し。

3月、4月は歓送迎会のシーズンで、やたらと飲み会が多くなる。大学生の頃は、気づかなかったが、僕はお酒が苦手なので、飲み会は避けたい。二次会に出なくなって久しい。全然関係ないけれど、ネクライトーキーの「こんがらがった」をよく聞いている。

 

ピントがずれ切っているまんまの僕なら

「うまくやっているよ」なんて騙し騙しで

同窓会を避けて歩いていく

 


ネクライトーキーMV「こんがらがった!」

 

漠然としたうまく行かなさを小脇に抱えながら生きている人たちにとって、同窓会を避けて歩きたくなるようなフィーリングはよく感じるものだ、多分。僕の飲み会を避けたい気持ちの根っこの一部分は、そんな感情だ。楽しいと口にしながらも、帰りながら好きなyoutuberの最新の動画を見たり、家で録画していたバラエティー番組を見たり、小説を書き進めたりしたい気持ちが強くなって帰りたくなっている。

 

そんなマインドを持ち合わせているものの、土日だけでなく、平日の仕事終わりに外へ出ることが増えてきて、新しいともだちが増えてきている。

1年前には到底考えられなかったような人たちと出会って、映画や小説の話、あるいは仕事の話をするのは、楽しい。RPGで新しい街に着いた時のワクワク感だ。

色んな人たちと会うと必然的に、自己紹介をすることが増えてくる。

不思議なもので、自己紹介をしても自分を全て伝えられた気にはならないし、自分は何者だろうか。って気持ちになる。

 

僕は好きなものが多い。

読書。映画。音楽。ラジオ。サウナ。

読書や映画、音楽の厄介なところは、相手も好きだとしても、好きということがそのまま、相手との共通点にはなり得ないということだ。

 

読書が好きと一言で言っても、ミステリーが好き、青春ものが好き、海外文学が好き、児童文学が好き、古典が好き、と様々だ。

 

僕は、「何を読むの?」という質問にいつもうまく答えられない。

詳しいわけではないけれど、ミラン・クンデラやローラン・ビネが好きだけれど、正直に口にしたら、それはあまりに相手のインタビュー能力、興味を過信しているのではないか。自己紹介は、本当に自分を紹介するわけではなくて、相手との共通点を探すゲームなのかもしれない!

 

以前、「柴崎友香が好きで、最近よく読んでいます」と答えたことがある。

人を好きになるのに理由はない!みたいな言説があるけれど、本や映画を好きであることには理由が求められることが多い。

 

ただ好きであることをそれでも言語化していくことで、きっともっと好きになっていくのだろうし、好きであることで生まれる何かがあるはずだ。

 

「公園へ行かないか? 火曜日に」は、アイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラムに参加した際の体験をベースにした小説だ。柴崎友香は言葉の使い方が上手い。冒頭の言葉の異質感がいつも心地よい。

 

パークに行かない? とウラディミルが聞いた。

火曜日に、ぼくたちはパークに行くのだけど、たぶん、ジャニンとユシと、他にも誰か。

WhatsAppという、日本語でいうとLINEに似たSNSアプリで、作家のほとんどはやりとりをしていた。英語で、ここはアメリカのアイオワだった。

わたしは、わたしは行きます、と返信した。十三時に、と返ってきた。

どこのパークかな、と思ったけれど、わたしは聞き返す代わりにiPadでグーグルマップを見た。大学の周辺にパークは三つほどあった。

火曜日の午後一時に、ホテルのロビーにいたのは、ウラディミルとジャニンとユシとアマナだった。ルゴディールも、行くかも、と言っていたらしいのでしばらく待っていたけど、結局来なかった。ルゴディールは前にもそういうことがあった。来たこともあった。

だから、ホテルを出発したのは、午後一時十五分くらいだった。ロビーから、お昼を過ぎて閑散としたカフェテリアを抜けてテラス川沿いの遊歩道に下りた。とてもいい天気だった。十月だった。

 

文章が下手なわけではない。英語をインターネットで日本語翻訳したような文体は、主人公のわたしがそこまで英語が達者なわけではないことがわかる。それだけでなく、「とてもいい天気だった。十月だった。」の突然さ、が柴崎友香特有のものだと思う。思考の奔放さが、僕は気持ち良い。

 

奔放さだけでなく、突然の不穏さも魅力だ。

 

部屋に戻ってから、しばらく逡巡したあと、ツイッターに追悼の言葉を書いた。チポレで買ってきたボウルを食べて、寝る前にiPhoneを見ると、@のついたツイートが表示された。「お前みたいな卑怯な人間にだけはなりたくない」。

 ツイッターをやっていると、強い言葉を向けられることはたまにあって、たいていはそれを送ってきたアカウントは他の人に対しても似たような言葉を書いていたりするのだが、このときはそのアカウントを見ても、読んだ小説の感想や日々の暮らしについての穏やかな言葉が並んでいて、否定的な言葉はわたしに向かって書かれたそれ以外に見つけることはできなかった。わたしがなくなった人のことを書いたツイートに対してなのか、なにかほかのことに対してなのかはわからなかった。一、二時間してまた開いてみると、そのツイートは消えていた。

反論や抗議をしたいわけではない。理由を知りたいわけでもない。ただ、日本から遠く離れた場所、日本語を話す人が周りにいない環境で、わからない英語で物事を伝えなくてはならない場所であまりにも明瞭に意味を伝えられたその言葉、数時間だけ存在したその言葉は、日本にいて読むのとはおそらく違った感覚が残った。

 

どきりとさせられる。そういえばイチローの引退会見の言葉にも同じような言葉があった。

 

アメリカに来て、メジャーリーグに来て、外国人になったこと、アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。

 孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと今は思います。だから、つらいこと、しんどいことから逃げたいというのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気のある時にそれに立ち向かっていく。そのことはすごく人として重要なことではないかと感じています。

 

孤独であること、その中で得た何か。

 

 わたしが思考する言葉。わたしが表現する言葉。伝えるときに用いる言葉。うまく話せていない、伝えられていないと感じる言葉で書こうとすることには、意味があると思う。ある言葉に別の言語の感覚を持ち込んで、その齟齬や隙間に、言語で表現しようとする動機があるとも思う。

話し言葉と書き言葉の違いもあるが、たとえば大阪弁は共通語と時制の表現が少し違うのではないかとわたしは考えていて、それを共通語に折り込むことはできる。ラリーのように続けること自体を重視する会話のリズムも、ある程度は生かせる。

わたしは小説の会話文を共通語でも大阪弁でも書くし、地の文はほとんどを共通語で書いているので、自分にとってのエモーショナルな言語、この言語で小説を書きたいと思うのは「日本語」か「大阪弁」かはっきりと分けられることではないが、少なくとも、母語、このプログラムの中でも何度か話題に上がった「マザー・タン」は、「日本語」というよりも「大阪弁」だ、という思いは、英語の中で暮らしていて、強くなるばかりだった。

(中略)

では、わたしの「母語」は誰からきたのだろう。誰から受け継いだ言葉で、わたしは話したい、書きたいと、こんなに強く思うのだろう。

 

柴崎友香の一番好きな部分はここだ。伝わりきらないと感じつつ、それでもなんとか伝えようとする感情の強さだ。