3週間くらい前に中学生の頃から飼っていた犬が死んだ。もう14歳くらいの老犬で、夏くらいから自分で歩くこともままならないような状態だったから、死が近いかもしれないと思っていたが、いざその時が訪れると受け入れることができなかった。
死ぬ2週間前には犬用の車いすを買って、一緒に散歩をした。筋肉がすっかり落ちてやせ細ってきていたから、体力をつけてほしいと思って、1時間近く散歩してしまった。車いすがあれば、 元気よく歩き回る姿を見て、自分のことのように嬉しくなった。
それが、1週間足らずで車いすでも歩けなくなって、夜鳴きをするようになった。どこか痛かったのだろうか。母と僕は心配して犬を抱きしめてやる。そのうち、安心したのか鳴き疲れたのか、腕の中で眠ってしまう。そうやって数日を過ごしたが、朝も昼もずっと鳴くようになってしまって、近くの病院へ行く。開院時間まで僕がずっと抱きしめていたのだが、腕に発疹が出る。後にアレルギー検査をしたら、犬アレルギーだった。長年過ごしていたのに気付かなかった。もう死に近づいているからかフケが大量に出て、それに反応したのかもしれない。
医者に看てもらうと、脳の病気かもしれないとのことだ。後ろ足の神経がもう麻痺していて自分では歩けなくなっている。前脚も麻痺しかけている。1,2ヶ月前に中耳炎になっていたのだけど、それがきっかけで脳の病気になっているのかもしれないですね、と医者が犬を触診しながら言っているのを聞いて、なんとか楽にさせてあげたい、という気持ちが強くなって、安楽死が一瞬脳裏をよぎるが 、ぞっとする。
ここ数日本当にかわいそうなくらい痛そうにしているし、何かにおびえるように鳴いている。もう僕のことを認識していないかもしれないけれど、死の訪れるまでの数日間、仕事から帰ってきたタイミング、 ご飯を食べ終わったタイミングでしきりに声をかけたり、なでてやる。
僕が中3で修学旅行から帰ってくると玄関にゲージに入れられたチワワがいた。近くのマンションで捨てられていたのを母が拾ってきたらしい。張り紙をしても、捨てた人は出てこない。 飼い始めて数週間は、人間におびえていてずっと震えていた。もしかしたら暴力を振るわれていたのかもしれない。
徐々に怖がらなくなって、犬の名前を呼ぶと無邪気に駆け寄ってくる姿がとても愛おしかった。 使わなくなったタオルケットを使って、犬とじゃれるのが楽しかった。つらいことがあった時もいつもと変わらず犬が寄り添ってくれてとても助けられた。
しつけ方がわからなくて、最後までトイレを教えられなかった。トイレに行きたそうにしているときに庭に出して、トイレをさせていた。そういうやり方をしていたので、しょっちゅう間に合わずに家の中で漏らしてしまう。その時のしゅんとした姿もなんだかかわいかった。僕らがトイレを教えないのがいけないのだけれど。
今年の9月には犬用のおむつを着けていた。歩けないどころか立てない、踏ん張れないという状態だったので、垂れ流しても良いようにしようということでおむつを着けた。
9月20日の夜、けいれんを起こす。動物病院の医者はもしかしたらてんかんかもしれないからと薬を出してくれたが、効かない。てんかんじゃなかったのかもしれない。夜鳴きをするようになってから、犬の表情がうつろげになっていたから、 認知症だったんだと思う。
けいれんを起こしている犬に大丈夫だよと声をかけてなでてやる。 春先から耳も聞こえなくなって、犬の名前を呼んでも反応しなくなっていたから、この呼びかけは届いてないのかもしれない。 けれど、なんとか安心させてあげたい、気持ちを落ち着かせてあげたいから声をかける。
けいれんが一旦収まったものの心配だった。しばらく近くで見てあげたかったが、明日も仕事があるしと寝ることにした。翌朝、母に会うと腕でばってんをする。寝起きの頭だったので、どういう意味か分からなかったが、やがて犬のことを言っているのだと気付く。
死に顔は穏やかな表情をしていた。眼が開きっぱなしになってしまっていたのは、申し訳ないが、うつろげな表情をしたまま死を迎えてほしくなかったから、穏やかな表情をしていたのはせめてもの救いだった。
その日は朝ご飯を食べていても、漫画を読んでいても、ふとした拍子で涙が溢れてくる。火葬に立ち会ってあげたいからと午前中仕事をやすむ。電話をすると1時間もしないうちに火葬業者が引き取りに来る。車の中に火葬設備がつまれていて、1時間くらいで焼き上がるみたいだ。最後にありがとね、と声をかける。
ダニロ・キシュの短編小説を読む。少年と犬の別れを自分といなくなってしまった犬に重ねて読んでしまう。
納骨が終わる。後々庭に埋める予定だが、今はまだ家にお供えしている。元気だった頃の写真をプリントアウトしてお骨の近くに供える。それからの数日間はぽっかり穴が空いたようだった。今までリビングの一角に犬がいたはずなのに、そこには何もない。寂しいとはこういうことをいうんだろうな。
しばらく引きずるのだろうかと思ったら、徐々に立ち直り始めている。きちんとお別れを告げることができたからだろうか。コロナの感染が落ち着いてきて、ようやく自分のルーチンの仕事に取りかかれて、心が安定してきているのもあるかもしれない。
今年のキングオブコントがレベルが高く、上位のコンビが総じて人間をきちんと描いてくれていたのが嬉しかった。空気階段の鈴木もぐらが優勝後のラジオでひとりぼっちで光のない青春を過ごしていると感じて悶々としているリスナーにひとりぼっちじゃないよ、 おれがいるじゃないの、と寄り添ってあげる姿勢に感動した。人気コーナー「サラリーマンじゃない人の声」でアウトサイダーの声を拾い続けた二人をこれからも応援したい。優勝おめでとうございます。
最近は、夜散歩をしている。少し太ってしまったからというのもあるが、創作のアイデアを歩きながら考えているのだ。今まで賞に応募する、ということをしてこなかったのだけれど、やってみよう、そう思ったきっかけは会社の経営者、上司と馬が合わないなと思い始めたからだ。一族経営の会社なので、 経営者が解任されることはほぼあり得ず、おそらく20年は変わらないと思うと、一定の我慢を強いられることになるのはちょっと耐えられないと感じた。
ただ実家から20分の場所にあって、深夜残業もなくて、年収もそれなりの会社なので、転職するとなると今よりはプライベートの時間は削られるし、激務になるだろうと予感はしている。 賞に応募して、受賞したら会社員を辞められるとは思っていないが 、自分の納得のいかない仕事に力を注ぐより自分の好きなことを形にしてみたい、どういう評価をされているのか知りたい、そういう気持ちで賞に応募しようと考えている。