on the road

音楽・映画・小説・漫画・お笑い・ラジオの話。

なかったこと。

父は今年で70歳になる。僕は父が44歳の時にうまれた。普段あまり父や母の年齢を意識することはないけれど、いざ計算してみると、時間の流れのはやさに驚く。

 

僕がうまれる前は、家族で旅行に行っていたようだが、僕がうまれてからは遠出することはほぼなかったし、外食も年に数えるほどしか行かなかった。両親は今でも元気なわけだが、こどもの頃から家族がいなくなってしまうことへの恐怖や不安をとても身近に感じていた。だからといって、親孝行をすることはそんなになかっただけれども。

 

小学3年生か4年生か忘れてしまったけれど、大晦日をテレビを見て楽しく過ごしていた。元旦、母から当時飼っていた犬のメリーが死んでいたことを告げられる。物心がつく前から我が家の一員として暮らしていたメリーは、死ぬ前兆すらなく死んでしまったのだ。もしかしたら数日前から何かしらSOSがあったかもしれない。けれど、気づくことはできなかった。死を迎えたメリーを、僕はこわくてさわってあげることができなかった。

 

あまり昔のことを覚えていない方なのだけれど、今でも古傷みたいに残っているこどもの記憶を思い出す。切ないという感情が描かれた作品が好きなのは、その影響なのだろうか。いや、小さい頃繰り返し見ていたドラえもんの影響だろうか。

 

ドラえもん映画は違う世界の人、あるいは動物たちとの出会いと別れを繰り返し描いている。映画の中で描かれる出会いと別れはいつか訪れるであろうのび太ドラえもんの別れを思い起こさずにはいられない。ずっと一緒に過ごしていてほしいが、「のび太結婚前夜」で土手の河原で星を見上げながら、のび太が「……ドラえもん」とつぶやくのを見るに、別れはどうやら訪れてしまうようだ。

 

「帰ってきたドラえもん」はその別れを描いてみせた。安心してドラえもんを帰らせたいのび太は、ドラえもんの力を借りずにジャイアンと喧嘩した。そこで辛勝したのび太ドラえもんは優しく抱きしめる。

 

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ドラえもんは安心させるために無茶したのび太の優しさに泣いた。のび太はなぜ泣いてるんだろうか。ドラえもんがいなくても生きていけるということをドラえもんに証明できたこと、あるいは刻一刻と近づく別れの寂しさと今までドラえもんを頼ってきた情けなさ、色んな感情がないまぜになってるんだろうか。

 

ドラえもんが帰ってしまった後、ジャイアンスネ夫にいじめられ、「ウソ800」で仕返しをしてなぜだかむなしさを感じているのび太の姿。こども向けのアニメでありながら、勧善懲悪的なストーリーに収束させず、仕返しをしたとしてもまるで解決しない事態(ドラえもんの不在)に気づき、背中を丸めて家に帰る姿はこども時代の僕に大きな影響を与えていたと思う。

 

不在、それにつきまとう寂しさは僕にとって永遠のテーマのようにも感じているのだが、最近は、なにかをなかったことにしてしまう手つきに敏感になっている。クンデラの「笑いと存在の忘却の書」の冒頭を思い出す。

 

一九四八年二月、共産党指導者クレメント・ゴットワルトは、プラハバロック様式の宮殿のバルコニーに立ち、旧市街の広場に集まった数十万の市民に向かって演説した。それはボヘミアの歴史の一大転回点、千年に一、二度あるかないかの運命的な瞬間だった。

ゴットワルトは同志たちに付き添われていたが、彼の脇の、ほんの近くにウラジミール・クレメンティスがいた。雪が降って寒かったのに、ゴットワルトは無帽だった。細やかな心遣いの持ち主だったクレメンティスは、自分が被っていた毛皮のトック帽を取って、ゴットワルトの頭のうえに載せてやった。

党の情宣部は、毛皮のトック帽を被り同志たちに取り巻かれて民衆に語りかける、バルコニーのゴットワルトの写真を何千万枚も焼き増した。共産党主義ボヘミアの歴史は、このバルコニーのうえで始まったのだ。どの子供もポスターや教科書、あるいは美術館などで見て、その写真を知っていた。

その四年後、クレメンティスは反逆罪で告発され、絞首刑に処された。情宣部はただちに〈歴史〉から、そして当然、あらゆる写真から抹殺してしまった。それ以来、ゴットワルトはひとりでバルコニーにいる。クレメンティスがいたところには、宮殿の空虚な壁しかない。クレメンティスのものとして残っているのはただ、ゴットワルトの頭のうえに載っかった、毛皮のトック帽だけになってしまった。

 

ある意味寓話とも取れるようなこの挿話だが、最近では遠い国の出来事とは思えなくなってしまった。「非正規」という言葉を使わせないみたいな話であるとか、就職氷河期の世代の人たちを人生再設計第一世代と言い換えてみせることとかがこの話と似通っているように思えてしまったからだ。

 

そうやって言葉を言い換えることで、たしかにそこにいた存在がなかったことにされるのが悔しいし、悲しい。「トイ・ストーリー4」のウッディ、フォーキー、ギャビー・ギャビーのことを思い出してほしい。

 

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ウッディは新しい持ち主のボニーに大事にされていない。それどころかいらないおもちゃになりつつある。

 

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フォーキーはゴミから作られたからか、自分のことをゴミ=役に立たないと思っている。

 

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ギャビー・ギャビーは、初期不良でウッディみたいに紐を引っ張っても音が出ない。だからか長い間リサイクルショップに眠っている。

 

彼らはいらない、役に立たないと思われている。けれど、それぞれに居場所が与えられる(あるいは見出す)。こんな物語を見たら、彼らのことをなかったことになんかできない。しかし、今までの自分の人生を振り返った時、小学校や中学校でいじめられていた人をいなかったように振舞っていなかっただろうか。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の第9話のラストでホッジンズがヴァイオレットに言う台詞を僕は大事にしたい。

 

ヴァイオレット「社長のおっしゃる通り、私はたくさんの火傷をしていました。良いのでしょうか。私は自動手記人形でいていいのでしょうか。生きて…、生きていて良いのでしょうか」

ホッジンズ「してきたことは消せない。でも…、でも君が自動手記人形としてやってきたことも消えないんだよ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 

してきたことをなかったことにはできない。けど、人のためにやってきたこともまたなかったことにはならない。そういう価値観を前提に生きていたい。

 

今年の高校演劇の最優秀作品である「ケチャップ・オブ・ザ・デッド」も社会的弱者をなかったことにはさせないための劇だった。面白いから見ることができるなら是非見てほしい。

 

最近、見聞きしたものによって、創作意欲がまた高まってきた。僕が今書きたいもの、興味があることは、タイムリープものだ。タイムリープをする目的は大抵、何か後悔していることをやり直すためだと思う。全人類がタイムリープができたら、"いまここ"にいることの重要性みたいなものが薄れるだろうし、歴史はいつでも書き換えられるものになれば、自分の主張に合わせてなにかを偽装していって、"本当のこと"なんてなくなってしまうだろう。誰かを好きになる、ということもきっと違う形になっていて、いまここにいる女の子のことは大好きだけど、別の世界線での女の子はたしかにその子なのに好きになれない、みたいなことがあるかもしれない。自分に都合の悪いことはいつでもなかったことにできる。そういう世界のことを考えている。