on the road

カルチャーに関する話。

なくしていた小説/思い出話/枯れた技術の水平思考

2019年に買った小説の上巻を途中まで読んで、いつの間にかなくしてしまった。本を読む頻度がぐっと減ってしまったこともあり、探さずに放置していたのだけれど、最近久しぶりに見つけて、ちびちび読み進めている。

 

f:id:aoccoon:20230402201247j:image

 

その小説はアメリカ、イギリス、ナイジェリアを舞台にしている。ナイジェリアという国について、僕は全然知らない。世界地図でナイジェリアを正確に指し示すことすらままならない。いつしかの水曜日のダウンタウンで「アフリカ人ならどこの国のアフリカ人だか分かる説」という企画をやっていて、ボビー・オロゴンがナイジェリア生まれであることを知ったし、当たり前のことなのかもしれないけれど、お国によって、ファッションや背丈、雰囲気に特徴があることを思い知らされた。もう30代に差し迫ろうかという年なのに、世界への解像度がまだ粗い。

 

ナイジェリア生まれの女性がアメリカへ留学する。タクシーの運転手になまりの取れた英語を話した際に、「わお。クール。すっかりアメリカ人のように聞こえますね」と言われ、汚辱感を感じる。彼女にとってなまりがなくなることは、自分固有の言語が失われていくような感覚だったのだ。そういう経験をいくつか体験し、彼女は差別や偏見に敏感になり、舌鋒鋭く、ブログに書き連ねる。

 

一方、かつての恋人は、小さい頃からアメリカに強く憧れていたもののアメリカへの渡航が叶わずにいた。大学卒業してからヴィザを申請したものの、テロの影響で申請が通らない。欲求不満のぬかるみから抜け出すためにイギリスに渡航するが、ヴィザ就労ヴィザがなく、イギリスで仕事にありつけない。イギリスですでに国民保険番号を持っている他の男の名を騙って、働く。それが可能なのは、イギリスでは肌の黒い人種の顔をそこまで区別できないからである。ナイジェリアの学生時代の友人に招かれた際のホームパーティでは、彼の欲望は理解されない。

 

彼のような人間がなぜ、食べ物も水も十分あたえられて育ちながら、欲求不満のぬかるみにはまって、生まれたときからどこかほかの場所へ出て行くことを目指し、本物の人生はそのどこかほかの場所で起きているとずっと思い込み、脱出するために危険を冒して違法行為までやると決心して、飢えているわけでも、レイプされたわけでも、村を焼かれたわけでもないのに、ひたすら選択肢と確かさを必死で求めることになるか、そこまでは理解できないのだ。

 

程度の差こそあれ、この感情にはすごく覚えがある。生まれ住んでいる町に暮らし続けることの行き詰まる感じを忌避したいと中学生の頃から願っていたのに、結局その生活圏から抜け出せずにいる自分と重ね合わせてしまう。望郷の思いももちろんあるが、自分が面白みを感じるのは別の地であるので、MONO NO AWAREの「東京」を久しぶりに聞くといつもより身体の奥に響く感じがする。最近、SUUMOで掲載されていたボーカルの玉置周啓の旅行記は良質なエッセイなので、「東京」を再聴する際に併せて読まれたし。

 

 

30年弱も生きると、それなりに面白い出来事が起こってきたわけで、飲み会で思い出話に花を咲かせることも増えてきた。大学生活よりも社会人生活の方が長くなってきたのに、大学生活という土壌にばかり花が咲かないことに少し危機感を覚えてしまうこともある。自分という人格を形成してきた人生の前半が参照され続けるのは致し方なしと思うが、昔の話ばかりするおじさんにはなりたくないとも思う。会社で同じ話ばかりするベテラン社員を昼ご飯を食べるときや帰り道で揶揄してしまう僕なのだけれど、「問わず語りの松之丞」の初期のエピソードで、高齢の方と話す時にその人の現在だけでなく、その人の黄金期も見て話す、といったことを話していて、そういう接し方があるのだなと感心する。その人の語りの裏に圧縮された人生を感じるというコミュニケーションをする境地にはまだ達していない。

 

人生という長い時間を考えたときに、家族や友人よりも職場の人と話す時間の方が長いかもしれないと気付いた。友人からは無口に思われているし、実際にその節はあるのかもしれないけれど、仕事中、部署の中でいちばん雑談をしている自信がある。仕事中の雑談は話にオチがなくて良いし、他部署からのメール、お客さんからの電話等、話のタネが無数に転がっているから、つい後輩やパートさんに話しかけてしまう。思えば、高校の部活中もそうだったかもしれない。野球は下手だったけれど、ティーバッティングをしているときやトンボでグラウンドを整備しているときに雑談をしていたし、そういう瞬間こそ面白みを感じていたんだと思う。

 

爆笑する話ばかりのラジオは聞かなくなってしまう。ラジオは聞き流せるくらいの温度感が良くて、一秒も聞き逃せないような密度の高い番組は聞くのにエネルギーを使うので、最初のうちは聞くのだけれど、そのうち聞かなくなってしまう。面白くない、というと語弊があるが、天気の話や旬の食べ物の話や時事ニュースなんかをダラダラとオープニングで話してる系の番組が自分にはちょうど良い。だから、飲み会でも面白い話ばっかりしている人よりも真面目な話ができる人とダラダラ話せたら良いなと思う。

 

仕事のモチベーションが落ちていることもあり、「任天堂ノスタルジー 横井軍平とその時代」という新書を読み始めた。横井軍平は、「枯れた技術の水平思考」という哲学を持っている任天堂の数々の玩具、ゲーム機を生み出した技術者で、その思考の一端に触れるだけで面白い。使い古されて安価になった技術を他の分野に転用することで新しい価値を創出する、というのは言うだけでは簡単だけれど、そういった理念を「枯れた技術の水平思考」という言葉にまとめたことが素晴らしい。哲学というレベルまで昇華できるほどに仕事に取り組める人に敬意を感じる。

 

 

天職や運命というものがあるかは分からないけれど、何にでもなれるが故に何も選び取れない、ということの恐怖はある。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はそういう意味で非常に励まされる映画だったかもしれない。前半のコメディ要素に全くのれなかったけれど。