on the road

カルチャーに関する話。

愚痴と生活

僕は総務で、色々な業務を担当している。その中で規程とか基準、手順書を作ったり、改訂することに面白さを感じる。文書にしていくことを反対していく人が一定数いて、曰く「それまでルール化したらキリがない」だとか「そこは状況に応じて柔軟に対応しようよ」だとか「考える力がなくなる」だとか。先人がマニュアルを作らなかったせいで、後輩が手探りで仕事をし、それによってエラーが発生して、多方面から怒られて心身に不調をきたしている。そういう場面を幾度となく目にしてきたから経験偏重型というか、文書を軽んじるその姿勢に悔しさを感じる。

 

僕もまた先人が曖昧にしてきた業務を任され、今後のルール整備を行うことになり、自分比でそれなりに忙しい日々を送る羽目になった。本当はドラマのコンクールに応募するために定時で帰りたかったのに、連日遅くまで残業し、休日出勤を繰り返してしまう。疲れを残したくなくて、長風呂をする。クナイプのバスソルトを久しぶりに買って使う。身体の温まり方が全然違う。食事にも気を遣いたいけれど、そこまでの余裕がない。

 

サウナは週1に抑えている。最近ロウリュの香りのバリエーションが増えてきたように思う。サウナ文化が発展してきているんだな、と思う。最近良かったなと思った香りは、アールグレイ、珈琲。アールグレイの甘い香りと珈琲の香ばしい香り。どちらも気持ち良い程度に香ってきて、サウナ室で心地良く汗をかけた。

 

もう脚本を書く時間が取れないからと諦めモードになりつつあるけれど、せめて小説やらドラマに触れる時間は作ろうと遅くに帰ってから、深夜1時くらいまで起きている。去年は23時に寝ることが多かったから、仕事中も割と眠い。

 

今日はお昼に近くの町中華に行ってきた。住宅街の中にある古びたお店。テーブルは2つしかない。古びたストーブの上にやかんが置いてあって、どこか懐かしさを感じる。カツ丼を注文する。付け合わせに漬物とチャーハンスープ。美味しい。サイフを忘れてしまって、焦っていたところ、また今度で良いよと店員のおばちゃんが言ってくれた。こう無条件に信頼されてる感じがなんだか嬉しい。

 

最近、Twitterの使い方を変えてみた。短い文でつぶやくのではなく、140字ギリギリまで言葉を詰め込んでみる、というつぶやき方。内容も自分の生活にかなり近いものにしているつもりだ。生活の言葉を灯籠のようにタイムラインに流してみるのも面白いのではないか。最近、生活と作品というものを対比させて考えている。もう少し考えをまとめたら、ブログに書くかもしれない。

 

井戸川射子の「ここはとても速い川」を少し前に読んで、これがここ2,3年で読んだ日本の小説でいちばん面白かった。児童養護施設「大麦園」に暮らす集とひじりの話で、子ども視点での文体がとびきりに良い。

 

父さんとおるん、しんどかったとひじりが言う。「二人でいると、僕がここを盛り上げな、と思ってまう」きっと慣れるまでやわな、と考えながら俺は返事して、「夕ご飯の時、今かって上田先生とか朝日先生が喋りまくってるんでもないやんか。大人と話なんか合うわけでないやん」と続ける。「ほんで、目の前にいてくれる親は自分の子なんて、眺めるだけでもう楽しいんやろ」いろんな人が、自分とちょっと似た子を生んで、きっとそうや。

 

小学生の頃、僕はこんなに豊かな感受性を持ち合わせてはいなかったが、地の文に口語体で書かれる集の気持ちに詩的な響きを感じて、子どもの頃というものに郷愁を感じてしまう。

 

タイトルにもある通り、川というのは重要なモチーフなのだと思う。読書メーターを眺めると地の文にたくさん出てくる口語体の集の思考を奔流する川になぞらえる人が多くいた。なるほど、たしかにそういう側面もあるんだろう。この作品において、流れる水はこのように描写されている。

 

雨やから正木先生は一人、屋根のある方の物干し場で洗濯物干してる。波形の半透明屋根を、水は自分の通路見つけて流れていく。

 

不定形なものが時間とともに自分の場所を見つけていく。モツモツのアパートの日陰に咲くアガパンサスを近くの知らない人の家の庭に植え替えたり、ひじりがお父さんと一緒に暮らすようになったり、居場所を変えて生きていくものたち。「流れてる意味も分からんままずっと気持ちいいような」、そんな生活の行く末を案じてみたくなった。